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日本サッカーの改革者としてとは? わかりやすく解説

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日本サッカーの改革者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:48 UTC 版)

長沼健」の記事における「日本サッカーの改革者として」の解説

代表監督退任したこの年医者野津謙サッカー協会会長では将来望めないと岡野重松らと野津会長=小野卓爾専務理事体制刷新画策三菱化成工業(現・三菱化学社長だった篠島秀雄会長就任要請した。しかし篠島1975年急逝したため篠島から推薦されていた平井富三郎(元・新日本製鐵社長)を新たに担ぎ野津会長後継とした。自身専務理事となり平井会長=長沼体制として実質的に日本サッカーリーダーとなる。平井サッカーには明るくなかったが、平井迎えたのは財政確立至上命令であったためで、財政確立平井会長進言したのは長沼である、長沼大会社トップ間近に見て経営心得実地学んだことは大きな意味を持った。これらはサッカー誌などで「76政変」「長沼クーデター」「無血クーデター」などと呼ばれている。「無血クーデター」というのは、この交代揉めずすんなり行われたため。野津らも世代交代時期考えていたのではといわれている。長沼リーダーとなったことで、半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心サッカー協会日本リーグ中心とする社会人チーム関係者の手に移るという大きな分岐点であった。また「丸の内御三家」の影響力がさらに強まることとなった長沼は、平井富三郎藤田静夫島田秀夫3代会長立てながら、実質的に激動期改革主導したこの頃早稲田大学同好会サッカー興じていた岡田武史呼びつけ同大蹴球部に入部させたという逸話も残る。加茂周日産自動車サッカー部監督就任は、長沼らの仲介よるもの。また協会運営円滑に進めるため、古河経理部門にいた小倉純二抜擢した小倉が「国際派」となるのは、1981年古河電工ロンドン支店転勤になった小倉長沼が「日本サッカー協会国際委員(在ロンドン)」と書かれた名刺持たせてからである。 当時日本サッカー協会には財源確保という大きなテーマがあった。長沼FIFA欧州クラブ組織参考に、以下の3つとして協会組織改革する。 FIFA組織準じた専門委員会改編FIFAに先じた個人登録制度(のち年齢別登録制に変更)の導入個人登録制度長沼平井会長提案して平木隆三と共に計画練り大谷四郎にも相談して発足させたもの。選手個々から登録料徴収するという提案中体連から「子供たちから金を取るのか」 などと、強い抵抗受けた1978年から実施した付随して日本のスポーツでは初めて、天皇杯日本すべての加盟チーム門戸を開いた自転車操業ともいわれた当時サッカー協会慢性的な赤字体質からの脱却オフィシャルサプライヤー制度始めデサントアシックスプーマ契約1977年結成した日本サッカー後援会」 の会費個人登録制度国際試合興行収入日本体育協会からの補助金合わせ財政基盤確立もたらした同年組織的に選手発掘し育成するナショナル・トレーニング・センター制度発足この年電通から持ち込まれペレ引退試合国立競技場開催観衆65000人を集め国立競技場初め満員になったといわれ、7000万円純益出した協会手掛けた初めての大きな興行で、1978年から実施した個人登録制度導入合わせ以降日本サッカー協会赤字体質から脱却したこの年を境に協会一度赤字になることはなく、Jリーグ発足直前には40億円の金があったといわれている。同じ年、全日本少年サッカー大会スタートさせ全国高等学校サッカー選手国立競技場での決勝など首都圏開催へ移す。また日本体育協会にこれも先じて長沼企画して始めたコーチングスクール開催また、協会の有力スポンサー、のちのトレーニングセンター建設などで、ユース世代指導スムーズに行われるようになった日本でもコーチシステムつくった方がいいというクラマーアドバイス受けて、コーチングスクール開催等、それを具体化したのは全て長沼だった。岡野は「財政豊かでないときに、とにかくやらなければ将来日本はないんだということスタートさせた、指導者きちっとしたシステムの中で育てていかなければいけないんだというのが、健さんの一番大きな功績だったと思います」と述べている。また、協会の有力スポンサーキリンビール付いたのは長沼当時原宿協会部屋の窓から線路挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールに「ああいう大きな会社支援お願いできないものか」と思案したのが始まりである。 1978年から始めて当初赤字出したジャパンカップスポンサー探しに、キリンビール社員審判員だった久保田秀一に案件依頼久保田尽力長沼岡野と共に代理店なしで当時同社小西秀次社長に直談判し冠スポンサー実現させ、同大会は1980年第3回大会からキリンカップサッカーと名称変更となったインターコンチネンタルカップトヨタカップ日本開催実現にも協力する1977年セルジオ越後らの提言を受け日本ミニサッカー連盟現在の日本フットサル連盟発足1981年日本代表監督就任した森孝慈要請応えそれまで勝利はおろか日当さえも出なかった代表チーム報酬金宿泊ホテル改善。これは1983年から韓国Kリーグ始まり韓国代表選手金銭的手当てが出るようになった影響がある。1983年木之本JSL事務局長抜擢尽力した1984年日本のサッカー界初の引退試合釜本邦茂引退試合 ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜」(国立競技場開催尽力

※この「日本サッカーの改革者として」の解説は、「長沼健」の解説の一部です。
「日本サッカーの改革者として」を含む「長沼健」の記事については、「長沼健」の概要を参照ください。

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