日本サッカーの改革者として
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「長沼健」の記事における「日本サッカーの改革者として」の解説
代表監督を退任したこの年、医者の野津謙サッカー協会会長では将来が望めないと岡野・重松らと野津会長=小野卓爾専務理事体制の刷新を画策。三菱化成工業(現・三菱化学)社長だった篠島秀雄に会長就任を要請した。しかし篠島が1975年急逝したため篠島から推薦されていた平井富三郎(元・新日本製鐵社長)を新たに担ぎ、野津会長の後継とした。自身も専務理事となり平井会長=長沼体制として実質的に日本サッカーのリーダーとなる。平井はサッカーには明るくなかったが、平井を迎えたのは財政の確立が至上命令であったためで、財政の確立を平井会長に進言したのは長沼である、長沼が大会社のトップを間近に見て経営の心得を実地に学んだことは大きな意味を持った。これらはサッカー誌などで「76政変」「長沼のクーデター」「無血クーデター」などと呼ばれている。「無血クーデター」というのは、この交代が揉めずにすんなり行われたため。野津らも世代交代の時期と考えていたのではといわれている。長沼がリーダーとなったことで、半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心のサッカー協会が日本リーグを中心とする社会人チームの関係者の手に移るという大きな分岐点であった。また「丸の内御三家」の影響力がさらに強まることとなった。長沼は、平井富三郎、藤田静夫、島田秀夫と3代の会長を立てながら、実質的に激動期の改革を主導した。この頃、早稲田大学の同好会でサッカーに興じていた岡田武史を呼びつけ同大学蹴球部に入部させたという逸話も残る。加茂周の日産自動車サッカー部監督就任は、長沼らの仲介によるもの。また協会の運営を円滑に進めるため、古河の経理部門にいた小倉純二を抜擢した。小倉が「国際派」となるのは、1981年に古河電工のロンドン支店に転勤になった小倉に長沼が「日本サッカー協会国際委員(在ロンドン)」と書かれた名刺を持たせてからである。 当時の日本サッカー協会には財源確保という大きなテーマがあった。長沼はFIFAや欧州のクラブ組織を参考に、以下の3つを柱として協会の組織改革する。 FIFAの組織に準じた専門委員会の改編。 FIFAに先じた個人登録制度(のち年齢別登録制に変更)の導入。個人登録制度は長沼が平井会長に提案して、平木隆三と共に計画を練り、大谷四郎にも相談して発足させたもの。選手個々から登録料を徴収するという提案は中体連から「子供たちから金を取るのか」 などと、強い抵抗を受けたが1978年から実施した。付随して日本のスポーツでは初めて、天皇杯を日本のすべての加盟チームに門戸を開いた。 自転車操業ともいわれた当時のサッカー協会の慢性的な赤字体質からの脱却。オフィシャルサプライヤー制度を始め、デサント、アシックス、プーマと契約。1977年に結成した「日本サッカー後援会」 の会費と個人登録制度、国際試合の興行収入、日本体育協会からの補助金と合わせ財政基盤確立をもたらした。 同年、組織的に選手を発掘し育成するナショナル・トレーニング・センター制度を発足。この年電通から持ち込まれたペレの引退試合を国立競技場で開催、観衆6万5000人を集め、国立競技場が初めて満員になったといわれ、7000万円の純益を出した。協会が手掛けた初めての大きな興行で、1978年から実施した個人登録制度導入と合わせ以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した。 この年を境に協会は一度も赤字になることはなく、Jリーグ発足直前には40億円の金があったといわれている。同じ年、全日本少年サッカー大会をスタートさせ全国高等学校サッカー選手権を国立競技場での決勝など首都圏開催へ移す。また日本体育協会にこれも先じて長沼が企画して始めたコーチングスクール開催、また、協会の有力スポンサー、のちのトレーニングセンター建設などで、ユース世代の指導がスムーズに行われるようになった。日本でもコーチのシステムをつくった方がいいというクラマーのアドバイスを受けて、コーチングスクール開催等、それを具体化したのは全て長沼だった。岡野は「財政が豊かでないときに、とにかくやらなければ将来の日本はないんだということでスタートさせた、指導者をきちっとしたシステムの中で育てていかなければいけないんだというのが、健さんの一番大きな功績だったと思います」と述べている。また、協会の有力スポンサーにキリンビールが付いたのは長沼が当時、原宿の協会の部屋の窓から線路を挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールに「ああいう(大きな)会社に支援をお願いできないものか」と思案したのが始まりである。 1978年から始めて当初赤字を出したジャパンカップのスポンサー探しに、キリンビール社員で審判員だった久保田秀一に案件を依頼。久保田の尽力で長沼は岡野と共に代理店なしで当時の同社・小西秀次社長に直談判し冠スポンサーを実現させ、同大会は1980年第3回大会からキリンカップサッカーと名称変更となった。インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)日本開催実現にも協力する。1977年、セルジオ越後らの提言を受け日本ミニサッカー連盟(現在の日本フットサル連盟)発足。 1981年に日本代表監督に就任した森孝慈の要請に応え、それまで勝利給はおろか日当さえも出なかった代表チームの報酬金 や宿泊ホテルを改善。これは1983年から韓国Kリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになった影響がある。1983年、木之本のJSL事務局長抜擢に尽力した。1984年、日本のサッカー界初の引退試合「釜本邦茂引退試合 ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜」(国立競技場)開催に尽力。
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