日光社発掘調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 01:48 UTC 版)
第1次調査では、建築物の遺構2か所と経塚、房跡が発見され、日光社参詣曼荼羅の描写と符合するかたちで建築物遺構が確認された。現地には、本社三社跡の砂岩割石製の基檀があり、三社とも正面4.4メートル、側面5メートル、4柱のおそらく入母屋造の社殿であったと考えられる。神社北側には人為的な崖が認められ、この崖に沿った細長い三段の平坦地を神宮寺の所在地と推定して発掘作業が行われた。平坦地のうち、第1平坦地からは2つの建築物遺構が検出された。出土物にもとづく推定から、1つ目の遺構は約6メートル四面の建物で、中心部には割石を入れて基礎を固めた上に中心礎があり、土檀の上に廻縁をめぐらした三間四面の宝塔で、釘を乳金物で隠す意匠が施されていたと考えられている。もう1つの遺構は一辺6.6メートルの正方形の建物で、廻縁をめぐらした三間四面の建築物であると推定される。第1平坦地は焼土層に覆われており、礎石は火にさらされて割れ、焼失の痕跡を示している。設定された第2平坦部からは多数の出土物があったが、建築物遺構は確認されなかった。それに対し、第3平坦部からの出土品は他の平坦部と様相を異にし、炉跡1箇所のほか瓦器や土師器質燈明皿が発見されたほか、炊飯具・供膳具も見られることから、生活の場であったと考えられる。この他、崖上からは、経塚の存在を示唆する石積らしき遺構が見出され、遺物として刀子1本や和鏡3面、刀子破片3片が発見されたが、経筒などは発見されず、また遺物も杉の大木の根の下から出土したため、確実な実測は困難であった。 第2次調査では、第1時調査の結果を拡充する成果が得られた。遺物の出土範囲は第1時調査よりもさらに広範囲にわたることが確認されただけでなく、斜面下方の限界が確認されたほか、焼失時の状況が推定された。また、寛永通宝が出土したことから近世に神社が存在したことが裏付けられたほか、社殿左右から礎石が発見され、日光社参詣曼荼羅と符合するかたちで社殿が配されていることが明らかになった。 日光神社および日光神宮寺の発掘調査は、1966年8月と1967年8月の2度にわたって行われ、調査結果は2冊の報告書にまとめられ、神宮寺遺構および出土物は、町指定文化財に指定された(→関連する文化財)。
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