日光社信仰をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 01:48 UTC 版)
画面中央の三社殿の左に描かれた正面三間の堂舎は、別紙貼り付けであることが以前から知られていた。大河内によると、この別紙の右下部分にまた別の紙が貼られて穴埋めされており、4枚の紙を貼り継いだ別紙のあり方と、右下穴埋め部分の料紙の貼り継ぎ方は完全に一致している。そして、穴埋め部分に描き直しの痕跡が無いことから、製作途中で行われたものであることが分かる。つまり、一画面中に描くべき情報を納めるため、現地景観との相違にもかかわらず、本来は三社殿の右下に描かれていたものを製作途中で切り取って貼り直したものと考えられる。日光社発掘調査と比較してみると、三社殿両側の建物は確かに位置こそ符合しているものの、あまりにも規模が相違するだけでなく、瑞垣の内部に配された人物像の視線が中央の三社殿ではなく、正面三間の堂舎に向けられていることも含めて、画面中央に横一列に並んでいる建物をすべて無造作に社殿と見なす見解は成立し難い。 瑞垣のうちにあって拝礼する人物像の視線が正面三間の堂舎に向けられていることは、本図を作成させた願主の目的を反映したものである可能性がある。すなわち、日光社は『紀伊続風土記』を含む近世の地誌において、応永年中に焼失した後、本社三社を除く堂舎は再建されなかったとされており、ここから本図の作成目的は三社殿左側の堂舎の再建とも考えられる。社寺参詣曼荼羅は、勧進によって実現されるべき再興後の理想の姿を描くのが通例であり、日光社参詣曼荼羅の描写が一定の史実を反映したものであるにせよ、特定の時期の日光社の実景を描き出していると単純に考えることはできず、紀伊続風土記が境内を本社3社・末社1社・鐘楼・庁のみがあったと伝えるように、再興が果たされなかった可能性もあるだろう。こうした点からすると、図像の他の部分も再解釈を要するものとなる。例えば、画面上部の3つの峯は日光山・護摩壇山・高野山、あるいは高野三山とも考えられ、瑞垣外の諸堂は別当寺と見るなら、勧進聖の拠点たる穀屋と思しき建物もある。また、画面下部の建物は小松家の支配地であった上湯川と捉えうるものであり、日光社の縁起にまつわる人物として平維盛と思しき人物像も見出される。また、高野聖の描写があることから高野山信仰との関連も指摘でき、日光山とその山麓一帯を熊野と高野山の双方の信仰が混在した地域であるとする指摘もある。御湯神事があったことにも見られるように、日光社と熊野信仰は無縁ではありえないものの、画面中の情報を補完しうる中世史料が日光社には欠けている。本図は、熊野信仰に無造作に結びついた絵画であるというより、より日光社とその周辺地域の歴史や信仰に結びついた絵画として位置づけられる。
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