日光東照宮陽明門
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本節は脚注で特記した箇所以外、工藤 1989, pp. 43–48による。 日光東照宮の陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。門の左右は袖塀を介して東西廻廊につながる。門を入ると正面が唐門で、その先には拝殿がある。 陽明門は他の社殿と同様、寛永13年(1636年)の造替である。建築形式は三間一戸楼門で、規模は桁行(間口)が約7メートル、梁間(奥行)が約4メートル、棟までの高さが約11メートルである。 屋根は入母屋造、銅瓦葺きで東西南北の各面に唐破風を付す。正面唐破風下には後水尾天皇宸筆の「東照大権現」の勅額がある。組物は上層が三手先(みてさき)、腰組は四手先で、柱上のみでなく、柱間にも密に組物を置く詰組とする。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で扇垂木とする。初層の柱は円柱で、礎盤削り出しの礎石上に立つ。初層の柱間は地覆、腰貫、飛貫(ひぬき)、頭貫で固め、頭貫上に台輪(だいわ)を乗せる。礎盤形の礎石、貫の多用、台輪の使用、詰組、扇垂木など、細部は禅宗様を基調とする。柱、貫などの軸部材は胡粉塗で白く仕上げ、要所に鍍金金具を嵌める。初層柱には地紋彫を施す。 地紋彫は屈輪文(ぐりもん)の地の上に丸文を散らし、丸文の中には鳳凰、孔雀、二つ蝶、竜、象、虎、牡丹などを表す。12本の柱のうち1本(背面西から2本目)のみは屈輪文が上下逆さになっており、「魔除けの逆柱」と称されている。また、建物を全て完璧に完成させるといずれ崩壊するという言い伝えから、一箇所だけわざと完璧にせず、崩壊を防ぐという意味もある。 初層中央間に黒漆塗に鍍金金具で飾った両開き扉を吊り、両脇間は表側に一対の随身像、裏側に獅子一対を安置する。 これらの像の周囲の壁面は胡粉塗に漆箔仕上げの牡丹唐草文の彫物で飾り、欄間(飛貫と頭貫の間)は黒漆塗の地に花鳥の彫刻を貼り付けている。その上方の組物は出組で、斗(ます)や肘木は漆箔とし、組物と組物の間は菊花文の彫物を入れる。初層の地覆、腰貫、飛貫、頭貫などの水平材は柱などと同様、胡粉塗で、頭貫は牡丹唐草文の地紋の上に様々な姿態の唐獅子の彫物を配する。頭貫の木鼻も唐獅子であり、阿吽を交互に配置する。その上の四手先の組物は、斗や肘木を黒漆塗とし、稜線部に金箔を押し、牡丹唐草文の沈金彫を施す。通肘木には鍍金の木瓜形金具を打つ。組物間の空間(琵琶板)には中国の先験や仙人などの人物像の彩色彫刻がある(詳細は後述)。 組物の四手先目の木鼻は彩色の唐獅子となり、その左右には牡丹を表す。初層の内部天井は中央間(通路部分)が2面の墨絵の雲竜図となり、その周囲には彩色の雲文がある。両脇間の天井は、東が天女図2面、西が迦陵頻伽図2面をいずれも彩色で描く。初層両側面の外壁には金箔の地に彩色の牡丹立木の彫物があるが、これは当初のものではなく、寛延2年(1749年)から宝暦3年(1753年)にかけての修理時に制作されたものである。 昭和49年(1974年)の修理時に、現在の牡丹図の下から、唐油彩色の鶴錦花鳥図が発見された。唐油とは、桐油、荏油などを顔料の溶剤とした絵画技法である。 上層は円柱を頭貫でつなぎ、その上に台輪を乗せる。柱、貫、台輪等は初層と同様の胡粉塗とし、柱には松皮菱の地紋彫がある。頭貫の木鼻は竜馬(りゅうば)となる。竜馬は一見、竜と似ているが、前脚に馬のような蹄があることから区別できる。 頭貫は浪間に竜馬の地紋彫を施し、正面及び背面の中央には大型の蟠竜の彫物がある。上層の柱間装置は、正背面の中央間を黒漆塗の桟唐戸とし、正背面の両脇間および東面・西面はそれぞれ変形の花頭窓とし、鳳凰円文で飾る。中央間の桟唐戸の前にも変形花頭窓形の枠がある。桟唐戸の左右には胡粉塗の昇り竜降り竜の彫物があり、正背面の両脇間および東面・西面の花頭窓の左右には胡粉塗の松竹の彫物がある。 上層の周囲には高欄をめぐらす。高欄の四隅の柱は逆蓮の柱頭を用いた禅宗様である。この高欄の羽目板には、唐子や植物、鳥などの彩色彫刻がある(後述)。上層の組物の仕上げは初層と同様で、斗や肘木を黒漆塗とし、稜線部に金箔を押し、牡丹唐草文の沈金彫を施す。出桁は群青地の上に牡丹唐草に鳳凰文を描く。組物間の空間(琵琶板)には鳳凰の彩色彫刻がある。上層の組物には尾垂木が上下2段に入り、上段の尾垂木先は竜、下段の尾垂木先は竜と似るが、異なった動物である「息」(読み方は「そく」または「いき」)とされている。 四隅では尾垂木が3段になり、上段から順に竜、雲形、息となる。「息」という架空の動物の名は、宝暦3年(1753年)にまとめられた『御宮並脇堂社結構書』(『宝暦結構書』)という資料に出てくる。この資料は東照宮内の建築装飾の主題や技法について詳細に記録した書物である。「息」という動物名はこの資料にしか見出せず、「息」の作例も日光東照宮の陽明門と拝殿以外の場所にはほとんど見出せないことから、その正体は謎であり、読み方も「そく」か「いき」か不明のままである。「息」は外見上、竜とよく似ているが、角が1本であること、鼻が豚に似ていることなど、明らかに異なった図像的特色もある。 日光東照宮は社殿もおびただしい数の彫刻で装飾されており、陽明門のほか、表門、回廊、唐門、拝殿、本殿などにも数多くの彫刻がある。総数は5173体で、そのうちの508体は陽明門にある。これらの彫刻は単なる装飾ではなく、徳川家康を「神」として祀る社殿において、様々な象徴的意味を担っている。人物彫刻には中国伝説や故事に取材したものが多く、鳥獣の彫刻には霊獣、霊鳥と呼ばれる、吉祥的意味合いを持つものが多い。 初層組物間には人物像の装飾彫刻がある。これらの題材はいずれも中国のもので、故事、古代の先験、伝説上の仙人などを表している。組物間の彫刻は、正面と背面に各7個、側面には各4個の計22個である。それぞれの題材は以下のとおり(便宜上、各面とも向かって右端の彫刻を(1)として番号を付した)。 正面(東から)(1)琴棋書画のうち弾琴(2人)、(2) 琴棋書画のうち囲碁(3人)、(3)周公聴訴(5人)、(4) 周公聴訴(4人)、(5)孔子観河(5人)、(6) 琴棋書画のうち展書(5人)、(7) 琴棋書画のうち観画(5人) 背面(西から)(1)琴高仙人(鯉に乗る)、(2)黄仁覧(竜に乗る)、(3)鍾離権、(4)費長房(3人)、(5)王子喬(鶴に乗る)、(6)梅福仙人(鳳凰に乗る)、(7)鉄拐仙人(唐子を含め2人) 東面(北から)(1)鄭思遠(虎に乗る)、(2)四睡(3人+虎)、(3)福禄寿と寿老人(唐子を含め3人+玄鹿)、(4)張良(麒麟に乗る) 西面(南から)(1)商山四皓(しょうざんしこう、4人)、(2)虎渓三笑(3人)、(3)西王母と東方朔(5人)、(4)三聖吸酸(3人) 初層頭貫木鼻の唐獅子(正面西端) 初層頭貫木鼻の唐獅子(背面東端) 梅福仙人 鉄拐仙人 鄭思遠 周公聴訴(周公旦に訴える人々) 琴棋書画のうち「画」 初層背面東側獅子 初層背面軒見上げ 逆柱 上層背面 正面の7個の彫刻のうち4個は「琴棋書画」(きんきしょが)を題材としたもので、残りの3つは周公旦と孔子にまつわるものである。「琴棋書画」とは琴、囲碁、書(書道)、絵画の4つの技芸を表す。これらは文人のたしなむものとされ、文人の理想の生活を象徴するものである。周公旦は周時代の政治家で、陽明門の彫刻は、彼が賢人を見逃さないために、髪を洗っている時にも人々との面会に応じたという故事を表している。陽明門の初層正面中央にある彫刻は、水盤を前に髪を洗っている周公旦を表し、その向かって右の彫刻は、周公旦に訴えを聞いてもらおうとしている5人の人物を表している。「孔子観河」は、『論語』の「子罕第九」にあるエピソードで、孔子が河の流れを見つめ、「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず」と述べた場面を表している。 背面の7個の彫刻はいずれも仙人を題材にしたものである。仙人とは、中国の道教思想における理想的人物で、仙術(超人的な術)を操る不老不死の存在とされている。琴高仙人は鯉にまたがり、黄仁覧、王子喬、梅福仙人はそれぞれ竜、鶴、鳳凰に乗った姿で表される。背面中央の彫刻の題材は費長房とされているが、この彫刻の中に費長房自身の姿はなく、空を見上げる3人の人物がいるのみである。これら3人の見上げる先に空を飛ぶ仙人がいるという設定になっている。 東面は北端に虎に乗る鄭思遠、南端に麒麟に乗る張良の彫刻がある。鄭思遠の左は「四睡図」で、天台山国清寺の豊干禅師と、同寺に住した風狂の隠者寒山・拾得が、禅師の手なずけた虎と一緒に眠っている図である。その左の彫刻は七福神のメンバーでもある福禄寿と寿老人を表したもので、寿老人の連れている鹿(玄鹿)もいる。 西面は中国の伝説や故事に登場する人物を題材としている。「商山四皓」は、秦代の末期に乱世を避けて商山(陝西省商県)に隠棲した4人の高士すなわち東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生(ろくりせんせい)を指す。「皓」は「白」の意で、4名とも眉や髭が白かったことからこの呼称がある。 「虎渓三笑」とは、慧遠、陶淵明、陸修静の3名を表した図像である。東晋の高僧慧遠は、廬山の東林寺に隠棲し、俗界との境である虎渓(川)を決して渡らないことを誓っていた。ある日、慧遠のもとを陶淵明と陸修静が訪ねてやってきた。慧遠は訪問を終えて帰る陶淵明と陸修静を見送る道すがら、彼らとの話に夢中になり、気がついたら3人とも虎渓を越えていた。それに気付いた3人が大笑したというエピソードである。 西王母と東方朔の図は「東方朔奪桃」と呼ばれるもので、東方朔が西王母の園から長寿の桃を盗み出し、800年の長寿を得たというものである。三聖吸酸は大甕を囲む3人の人物(蘇軾、黄庭堅、仏印)を表す。儒教の蘇軾、道教の黄庭堅、仏教の仏印の3人が桃花酸という酢をなめたところ、3人とも「酸っぱい」と言ったという故事で、宗教や立場が違っても真理は一つであるという意味を表す。 以上の人物彫刻にはそれぞれの含意があるが、特に正面に位置する彫刻には重大な意味があり、正面中央の周公旦は理想の為政者像として、徳川家康その人のイメージを投影したものとみなされる。仙人の像は、家康の肉体は滅びても、その魂は永遠に生き続けることの寓意とみられ、家康を葬った日光の地が仙境であることを含意するとの見方もある。後述の「唐子遊び」の像は、徳川政権下の天下泰平を寓意するとみられる。 上層高欄の羽目板には「唐子遊び」と呼ばれる装飾彫刻がある。「唐子」とは、絵画や工芸品の題材として登場する、中国の子供のことを指す。羽目板は正面と背面に各9面、側面には各6面の計30面である。30面のうち10面は鳥や植物などの図柄で、残り20面が「唐子遊び」である。それぞれの題材は以下のとおり(便宜上、各面とも向かって右端の羽目板を(1)として番号を付した)。 正面(東から)(1)孟母三遷(2人)、(2)奏楽する4人の童子、(3)踊る5人の童子、(4)石拳をする8人の童子、(5)司馬温公甕割(5人)、(6)鬼ごっこをする6人の童子、(7)木馬遊びをする6人の童子、(8)団扇で蝶を追う3人の童子、(9)石拳をする5人の童子 背面(西から)(1) 白犬と遊ぶ5人の童子、(2)木兎(みみずく)、瑠璃鳥、松竹、(3)灌仏会(かんぶつえ)遊びをする5人の童子、(4)山鵲、万年青、竹、牡丹、(5)雪だるまを作る5人の童子、(6)瑠璃鳥、牡丹、唐松、(7)雪で犬を作る5人の童子(「動物いじめ」とも)、(8)山鵲、唐松、牡丹、(9)木馬遊びをする2人の童子 東面(北から)(1)山鳩、牡丹、梅、(2)倒れた子を助ける童子、(3)冬に火鉢にあたる7人の童子、(4)喧嘩をする5人の童子、(5)鳩、椿、梅、(6)鳩を捕える3人の童子 西面(南から)(1)雀、大和松、竹、(2)雀、大和松、たんぽぽ、(3)鸞(らん)、菊、芙蓉、(4)布袋和尚と2人の童子、(5)鸞、牡丹、唐松、(6)野遊びをする2人の童子 唐子の彫刻群は、「孟母三遷」と「司馬温公甕割」以外は、具体的なエピソードを語るものではない。「司馬温公甕割」は、司馬温公が幼少の時、誤って大甕に落ちた友人を救うために、高価な甕を叩き割ったという故事を表す。花鳥の彫刻のうち、「鸞」は想像上の鳥で、鳳凰とよく似ているが、尾羽が鳳凰のようにギザギザにならない点で区別される。山鵲は中国などに実在する鳥で、「尾長鳥」と表記されることが多い。瑠璃鳥は実在するスズメ目の鳥であるオオルリ、コルリのことだが、彩色がなければ雀と区別しがたい。
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