政権掌握まで
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シマは1906年7月3日にハンガリー王国フォガラス県トランシルヴァニア地方ムンドラ(現在のルーマニアのブラショフ県ムンドラ)でシルヴィアとゲオルゲ・シマの間に生まれた。1926年から1932年にかけて、ホリア・シマはブカレスト大学文学部と哲学部で学び、ルーマニアキリスト教学生同盟の評議員を務めた。 1932年からカランセンベシュの高校で論理、ラテン語、哲学の教師として働き始め、その後ルゴジ、そして最後にティミシュモアラの学校へ異動する。 学生時代の1927年10月、新しく結成された鉄衛団に入り、バナト地方を担当することになった。1930年代初頭、シマは鉄衛団のメンバーが農村で農民の間で運動を進める「人民の間の遠足」に参加し、1930年代にはセヴェリン県における軍団の主要な組織者となっていた。1935年にはティミシュオアラ地方の軍団長に昇進し、1937年のルーマニア総選挙ではセヴェリン県の候補者として立候補した。鉄衛団の創設者で指導者のコルネリウ・ゼレア・コドレアヌが投獄され、後に殺害されると1938年末にはシマが司令官になった。鉄衛団は当初、1938年4月にシマ、イオン・ベルゲ、イオルダチェ・ニコアラ、イオン・アントニュー、ラドゥ・ミロノヴィチを含む暫定指導部を結成したが、8月までシマはルーマニア政府によって投獄されていない唯一の指導者であり続け、結局彼は以前に確立した指導者階層を回避して鉄衛団の指導者となることを許されることとなった。彼が指導者になる前に、コドレアヌ(国王カロル2世の命令で殺害された)を含む鉄衛団のメンバーの一連の暗殺を受け、組織内と国全体の緊張が著しく高まっていた。 1939年初頭、シマはユーゴスラビア経由でナチス・ドイツに逃亡し、そこで多くのルーマニア人亡命者とともにクーデターを計画しようとしたが、この計画はドイツ警察によって発見され、多くの軍団員が逮捕されることになった。同年夏、彼は1939年9月21日にルーマニアの首相アルマンド・カリネスクの暗殺を準備・実行するために送り返され、カレネスクの殺害後、シマが率いる軍団員がルーマニアの国営ラジオ放送局を支配することになった。 シマと亡命中に結成されたヴァシレ・ノヴェアヌ率いる分派との間で軍団の指導権をめぐる権力闘争が起こった後、シマは短命だったゲオルグ・タタレスク政権によって教育省内の国務長官に任命されることになった。1940年7月4日、彼はイオン・ジグルトゥ内閣の公教育省次官、宗教・芸術大臣に就任し、他の2人の鉄衛団のメンバーと共に、この役職に就いた。シマはわずか4日でジグルトゥ内閣を辞任した。この内閣の下で、反ユダヤ主義はルーマニアの法律で成文化され、1940年8月9日までにルーマニア民族とユダヤ人の結婚は禁止され、ユダヤ人の公教育へのアクセスも禁止された。1940年8月30日に北トランシルバニアがハンガリーに分離独立(第二次ウィーン裁定として知られる)するとジグルトゥ政権は崩壊した。 この分離独立に先立つ1940年8月から、シマが支配する鉄衛団一派は、北トランシルヴァニアの譲歩に反発し、国王カロル2世に対するクーデターのための組織作りを始めた。シマはニコラエ・ペトラシュクとともに軍団員を組織し、武装させようとしたが、犠牲になることをいとわない約1000人の軍団員しか集めることができなかった。第二次ウィーン裁定の際、シマはドイツ当局を訪れ、枢軸国側の民族主義政府を樹立しようとしたが、成功せず退去した。9月までに彼は配布用のマニフェストを作成し、クーデターの日付を9月3日に設定していた。人手不足のため(1000人の軍団員のうち500人しか参加しなかった)クーデターは計画通りに実行されず、軍団員と警察官がブラショフ、コンスタンツァ、ブカレストなどの中心部で銃撃戦と衝突し、終盤に軍団員のほとんどが降伏している。クーデターは失敗に終わったが、カロル2世に対する多くの抗議行動に拍車をかけ、9月4日までに国王はイオン・アントネスク将軍を首相に任命し、蜂起を食い止めた。
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政権掌握まで
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「シアカ・スティーブンス」の記事における「政権掌握まで」の解説
1905年8月24日、現在の南部州のモヤンバ(英語版)に生まれた。 1958年、9月にスティーブンスはミルトン・マルガイ首相の弟でもあり、彼の後継者のアルバート・マルガイと共にシエラレオネ人民党 (SLPP) を脱退し、人民国家党 (PNP) を結成した。 1960年にPNPとUPPが4月のロンドンで開催される憲法制定議会に向けて全政党による統一戦線 (UNF) に加わった。これにより国民連合の政権が誕生し、アルバート・マルガイが首相になると、スティーブンスは新たに独立前選挙維進運動 (EBIM) を結成するため連合を脱退した。その結果、彼はマルガイ首相のPNPと対立していきPNPから除外されるが、EBIMを全人民会議(APC)に変更しAPCの議長になった。 1964年にフリータウンの市長に当選。1967年3月17日、アルバート・マルガイ政権への一党国家の変更の失敗やマルガイの出身部族であるメンデ族中心主義の政策や腐敗した汚職の批難などの不満からマルガイ首相率いる与党シエラレオネ人民党(SLPP)にスティーブンス率いる全人民会議(APC)が総選挙に勝利してイギリス総督サー・ヘンリー・ライトフットより首相に指名される。ところが、マルガイ同盟でもある軍のデヴィッド・ランサナ准将が選挙結果に不満を持つマルガイ派の支持を受けてクーデターを起こし、スティーブンスとライトフットが逮捕された(3月21日)。その後3月23日チャールズ・ブラカ中佐らのクーデターでランサナが失脚し、アンドリュー・ジャクソン=スミス中佐の指導下で「国家改革協議会(NRC)」が樹立された。スティーブンスはギニアへ亡命したが、スミス軍事政権の腐敗と独裁への批判が高まり、1968年4月17日にジョン・バングラ准将らがスティーブンスを支持してクーデターを起こし、NRC政権を打倒した。帰国したスティーブンスを新首相として、APCとSLPPが連合政権を樹立することとなった。
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