政権与党の幹部として
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田中の名前が自民党内外で知れ渡ったのは、1970年(昭和45年)の「大平クーデター」によってである。自民党総裁三選を果たした佐藤栄作首相は、池田の後継者・前尾繁三郎に約束した内閣改造を反古にし(背景には佐藤のライバル・三木武夫が111票を取ったことへの不満があった)、前尾に飽き足りぬ田中が口火を切る形で宏池会会長を前尾から大平に交代させた。 大平側近として大平政権樹立に奔走し、1978年(昭和53年)第一次大平内閣が誕生するや、内閣官房長官として入閣する。内閣のスポークスマンとして大平の「口舌」役をつとめ「おしゃべり六さん」の異名を取るが、一方で三木元首相や福田元首相を「頭の呆けた連中」などと放言するなど、失言・舌禍も多く「大平内閣のアキレス腱」と見る向きもあった(三木に対しては、「あの世から亡くなった政治家(椎名悦三郎副総裁のこと)が“おいでおいで”しているよ」と発言して怒りを買っている)。 1979年(昭和54年)11月第二次大平内閣が成立すると、内閣官房長官を伊東正義と交代し自民党筆頭副幹事長となる。1980年(昭和55年)3月、ロッキード裁判の過程で、浜田幸一のラスベガス賭博事件が明るみに出ると、田中は「川筋者」の本領を発揮。浜田と膝詰談判の末に引導を渡し、「首切り六さん」「落としの六さん」の異名を奉られた。 1979年(昭和54年)2月14日、ダグラス・グラマン事件に絡む問題で衆議院予算委員会で証人喚問された日商岩井副社長海部八郎との関係を問質され、疑惑の政治家となる。 1980年(昭和55年)5月16日、社会党から提出された大平内閣不信任決議案は、反主流派の福田派と三木派が本会議場に欠席したため成立し、大平首相は衆議院を解散、史上初の衆参同日選挙に突入する。しかし、党内抗争によって疲弊しきった大平は心筋梗塞で倒れ、快方に向かうかに見られた矢先の6月12日に容態が急変し、不帰の客となった。 田中は領袖の死を悲しむ一方で冷静に事態の収拾に動き、渋る伊東正義内閣官房長官を内閣総理大臣臨時代理に就任させ、大平の選挙区には首相秘書官で女婿の森田一を出馬させた。大平の死の影響もあって自民党は圧勝するが、ポスト大平の後継総裁に宏池会代表(会長の名称は、伊東の意見により大平に弔意を表すため控えた)に就任した鈴木善幸を担ぎ出す。田中はまず岸信介に根回しをし、岸を通じて福田を説得、田中角栄も了解し、一挙に鈴木内閣成立の立役者となった。 7月9日に最高顧問会議が開催されたが、その時には既に総裁選出は事実上終了していたため、前尾繁三郎をして「幕が開く前に芝居が終わっていた」と言わしめた。鈴木内閣実現の功労により、通商産業大臣に就任。その一方で鈴木は内閣官房長官に宮澤喜一を起用し、これ以降田中と宮澤の間で「一六戦争」と称された鈴木派内の激しい主導権争いが勃発する。 1981年(昭和56年)冬に発足した鈴木改造内閣では、自民党政務調査会長として党三役の一翼を占める。鈴木と宮澤が縁戚関係を結んだことから、次第に鈴木後の首相最有力候補である中曽根康弘に接近していった。この年には、著書『大平正芳の人と政治』(正続2冊、朝日ソノラマ)を刊行している。
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