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政権与党の幹部としてとは? わかりやすく解説

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政権与党の幹部として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:06 UTC 版)

田中六助」の記事における「政権与党の幹部として」の解説

田中の名前が自民党内外知れ渡ったのは、1970年昭和45年)の「大平クーデター」によってである。自民党総裁三選を果たした佐藤栄作首相は、池田後継者前尾繁三郎約束した内閣改造反古にし(背景には佐藤ライバル三木武夫111票を取ったことへの不満があった)、前尾に飽き足り田中口火を切る形で宏池会会長を前尾から大平交代させた。 大平側近として大平政権樹立奔走し1978年昭和53年第一次大平内閣誕生するや、内閣官房長官として入閣する。内閣スポークスマンとして大平の「口舌」役をつとめ「おしゃべり六さん」の異名を取るが、一方で三木元首相福田元首相を「頭の呆け連中」などと放言するなど、失言舌禍多く大平内閣アキレス腱」と見る向きもあった(三木に対しては、「あの世から亡くなった政治家椎名悦三郎副総裁のこと)が“おいでおいで”しているよ」と発言して怒り買っている)。 1979年昭和54年11月第二次大平内閣成立すると、内閣官房長官伊東正義交代し自民党筆頭副幹事長となる。1980年昭和55年3月ロッキード裁判過程で、浜田幸一ラスベガス賭博事件明るみに出ると、田中は「川筋者」の本領発揮浜田膝詰談判の末に引導を渡し、「首切り六さん」「落としの六さん」の異名奉られた。 1979年昭和54年2月14日ダグラス・グラマン事件に絡む問題衆議院予算委員会証人喚問された日商岩井副社長海部八郎との関係を問質され疑惑政治家となる。 1980年昭和55年5月16日社会党から提出され大平内閣不信任決議案は、反主流派福田派三木派本会議場欠席したため成立し大平首相衆議院解散史上初の衆参同日選挙突入する。しかし、党内抗争によって疲弊しきった大平心筋梗塞倒れ快方に向かうかに見られ矢先6月12日容態急変し不帰の客となった田中領袖の死を悲しむ一方で冷静に事態の収拾動き渋る伊東正義内閣官房長官内閣総理大臣臨時代理就任させ、大平選挙区には首相秘書官女婿森田一出馬させた。大平死の影響もあって自民党圧勝するが、ポスト大平後継総裁宏池会代表(会長の名称は、伊東意見により大平弔意を表すため控えた)に就任した鈴木善幸担ぎ出す田中はまず岸信介根回しをし、岸を通じて福田説得田中角栄了解し一挙に鈴木内閣成立立役者となった7月9日最高顧問会議開催されたが、その時には既に総裁選出は事実上終了していたため、前尾繁三郎をして「幕が開く前に芝居終わっていた」と言わしめた。鈴木内閣実現功労により、通商産業大臣就任。その一方で鈴木内閣官房長官宮澤喜一起用し、これ以降田中宮澤の間で「一六戦争」と称され鈴木派内の激し主導権争い勃発する1981年昭和56年)冬に発足した鈴木改造内閣では、自民党政務調査会長として党三役一翼占める。鈴木宮澤縁戚関係結んだことから、次第鈴木後の首相最有力候補である中曽根康弘接近していった。この年には、著書大平正芳の人と政治』(正続2冊、朝日ソノラマ)を刊行している。

※この「政権与党の幹部として」の解説は、「田中六助」の解説の一部です。
「政権与党の幹部として」を含む「田中六助」の記事については、「田中六助」の概要を参照ください。

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