ようらん‐き〔エウラン‐〕【揺×籃期】
揺籃期
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「海軍航空隊 (フランス海軍)」の記事における「揺籃期」の解説
1909年7月25日、ルイ・ブレリオは英仏海峡の初横断に成功し、1910年3月28日にはアンリ・ファーブルがベール湖で水上機の湖上離水に成功した。 当時の海軍大臣オーギュスト・ブエ・ド・ラペイレール海軍中将は1910年4月にジュール=ルイ=マリー・ル・ポール代将 (Jules-Louis-Marie Le Pord) を長に同年7月1日に委員会を設立させた。この委員会が海軍航空隊の起源であるとされる。当時、委員会では熱気球に対して飛行機が有利であると主張した。これに大臣は興味を示し海軍飛行場の設立を認めた。1910年7月に海軍は士官の飛行教育課程をフランス飛行クラブに指定した。8月から操縦士の教育を開始し1911年3月まで続いた。 1911年6月、ルネ・ダブリュイ海軍大佐 (fr:René Daveluy) を指揮官に実験飛行機をまとめるように任せる。そしてモンペリエとフレジュス (fr:Fréjus) に独立した基地を設け3種類の飛行機を与えられる。ダブリュイは1911年12月末に職を辞し、1912年3月20日に代理としてルイ・ファト海軍中佐 (Louis Fatou) が引き継いだ。フレジュス沿岸部に飛行場が完成する。この時期の海軍はわずかに2機の飛行機を有しているのみであった。このためモーリス・ファルマン製複葉機と水上機が届けられた。1912年6月中に水上機母艦「フードル」に水上機10機の装備を目指すも、飛行機は届けられなかった。 その後、ピエール・ル・ブリ海軍参謀総長 (Pierre Le Bris) の梃入れによりニューポール製飛行機への変換が求められる。1914年5月には無線機を装備した水上機12機が海軍演習に参加した。水上機は偵察任務に用いられ、地中海を縦横に飛行した。このころには24人の操縦士の教育を終了し、14機の水上機を要していた。海軍参謀総長は航空部門の本部をパリに設ける必要があるとし、1914年7月10日の命令により、8月1日にジャン・ノエル海軍大佐 (Jean Noël) がこの職に任命される。
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揺籃期(3次防以前)
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DDG「あまつかぜ」 2次防で検討されたヘリ空母(CVH) 勢力の充実にともなって、護衛隊群を戦術単位とする認識が生じてきたが、有事における最重要の任務である船団護衛を行なうためにどのような戦術単位が適切であるかという研究はなされていなかった。第2次防衛力整備計画(1962年(昭和37年)〜1966年(昭和41年)度)策定段階の1959年(昭和34年)には、対潜掃討群(HUKグループ)の編成を念頭に、その中核として基準排水量8,000トン級のヘリ空母CVHが基本設計段階にまで進展したものの、予算上の問題もあり、保有時期尚早と判断されて立ち消えになった。 編成(1966年(昭和41年)7月16日) 護衛艦隊旗艦(横須賀) - DD-161 あきづき 第1護衛隊群(横須賀)DD-162 てるづき DDG-163 あまつかぜ 第8護衛隊(横須賀)- DD-104 いそなみ, DD-106 しきなみ 第9護衛隊(横須賀)- DD-103 あやなみ, DD-105 うらなみ 第2護衛隊群(佐世保)DD-101 はるかぜ(佐世保) 第10護衛隊(舞鶴) - DD-107 むらさめ, DD-108 ゆうだち, DD-109 はるさめ 第11護衛隊(呉)- DD-110 たかなみ, DD-111 おおなみ, DD-112 まきなみ 第21護衛隊(佐世保)- DD-113 やまぐも, DD-114 まきぐも 第3護衛隊群(舞鶴)DD-102 ゆきかぜ 第7護衛隊(呉)- DE-201 あけぼの, DE-202 いかづち, DE-203 いなづま 第31護衛隊(舞鶴)- DE-211 いすず, DE-212 もがみ 第32護衛隊(舞鶴)- DE-213 きたかみ, DE-214 おおい
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揺籃期
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敵領土への上陸戦は、陸戦に海軍を用いる最良の事例であり、その歴史は海戦と同じくらい古いとされる。しかし近代においては、沿岸砲の高威力化と機雷や水雷艇など新兵器の登場・発達で沿岸防備が強化されていったことから、19世紀末までには、上陸作戦は従来ほど効果的に実施できなくなっていた。このような情勢を受けて、アントワーヌ=アンリ・ジョミニも上陸作戦に否定的であったように、各国陸軍ともに水陸両用作戦はあまり重視しなかった。 この様相に大きな一石を投じたのが、第一次世界大戦中の1915年に生起したガリポリの戦いであった。これは近代戦初の敵前上陸作戦であるとともに、その困難さを示す戦例ともなった。これを踏まえて、戦間期に研究開発を活発化させたのが大日本帝国陸軍とアメリカ海兵隊であった。 日本では、陸軍は奇襲の重要性に着目するとともに、敵前上陸のための自走舟艇の開発や上陸前後の弱点を補足する海空戦力による強力な掩護を求めるようになった。一方、海軍は艦砲射撃の効果が少なかったことに着目し、折から軍艦の精巧化に伴って艦艇乗員の専門化が進み、陸戦隊の維持が負担となっていたことから、上陸作戦への主体的関与を薄めていった。このことから、日本軍の上陸作戦は陸軍が主導するようになり、1927年から1932年にかけて陸海軍協同で制定された「上陸作戦綱要」において明文化された。またこれと前後して、人員を輸送・揚陸するための小発動艇(小発)、火砲・車両等の輸送に対応した大発動艇(大発)が開発されたが、これらは世界初の実用的上陸用舟艇であった。これらのシステムは、1932年の第一次上海事変の際の七了口上陸作戦において早速実戦投入され、有効性が確認された。 一方、米西戦争によってカリブ海および太平洋の旧スペイン植民地に対する管理権を獲得したアメリカ合衆国も、これらの地域での上陸戦を想定した研究に着手していた。こちらは、折から陸軍への合併・廃止が提案されて組織存続の危機に直面していた海兵隊が主務者となっていたこともあって、海軍との統合作戦を前提としており、1934年にはアール・H・エリス(英語版)中佐の構想を基にして暫定上陸作戦マニュアルが作成された。
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揺籃期
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1991年(平成3年)、陶邑窯北部に位置する堺市大庭寺遺跡の発掘調査により、古墳時代の集落の遺構等とともに明らかにされたTG232号窯およびTG231号窯からは朝鮮半島の陶質土器の影響が色濃い初期須恵器が大量に出土している。また、そこから1キロ余り西の地点で先の2つの窯跡よりやや遅れる段階に操業を開始したと思われるON231号窯が発掘され、ここからも大量の初期須恵器が出土している。さらにここから2キロ西に離れた和泉市内において1966年(昭和41年)に調査されながら、1999年(平成11年)に正報告がなされた濁り池須恵器窯もTG232窯にすぐ後続する段階のものであり、須恵器生産の最古の段階(4世紀末 - 5世紀初頭)から陶邑で、かなりの規模の生産が継続的に行なわれていたことを示している。これらの初期の窯跡は陶邑でも北部の平野部に近い場所にあり、丘陵の入口部から須恵器窯としての開発が始められ、時期が下るとともに丘陵の奥に窯が設けられるようになっていったようである。 なお、当古窯跡群の北方数キロには5世紀に造営された大仙陵古墳を始めとする百舌鳥古墳群が展開しており、陶邑窯の創設当初、巨大古墳群の造営主体である初期畿内政権(ヤマト王権)中枢と直接の関わりがあったことが想定されている。こうして、5世紀以降、時期ごとに営まれた窯の数の増減はあるものの平安時代まで日本最大級の窯業生産地として栄えた。我国の窯業生産発祥地の1つと言える。
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揺籃期 (19世紀末)
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19世紀後半の水雷兵器の発達とともに、これを主兵装とする戦闘艇として水雷艇が登場した。最初期の水雷艇は外装水雷や曳航水雷などを用いていたが、攻撃用水雷の決定版として自走水雷(後の魚雷)が開発されるとともに、こちらが用いられるようになっていった。露土戦争中の1878年には、ロシア帝国海軍のマカロフ大尉が指揮する艦載水雷艇がオスマン帝国海軍の砲艦を襲撃し、イギリスから輸入したホワイトヘッド式魚雷によってこれを撃沈したことで、史上初の魚雷による戦果が記録された。当時、重砲でも大型の装甲艦を撃破することは難しかったのに対し、このように魚雷を用いれば安価な小型艇でもこれを撃破しうることが着目されて、1880年代には各国海軍は競って水雷艇を建造した。1890年末の時点で、7つの大海軍国の合計800隻以上の水雷艇があったが、1896年末の時点では、同じ7ヶ国だけでも1,200隻以上に増加していた。1895年の威海衛の戦いでは、大日本帝国海軍により、世界初の大規模な魚雷攻撃が実施され、多大な戦果を挙げた。 このように水雷艇が台頭・普及するのに伴って、それらの襲撃から主力艦を防護する必要が生じた。その任に充てるため、まず1880年代後半より、水雷巡洋艦を元に小型・高速化を図った水雷砲艦が登場した。しかしこれは外洋での航洋性が十分でなく、また小型の艦に大出力の機関を搭載するため、振動などのトラブルが耐えなかった。これに対し、敵の水雷艇の攻撃を防ぐには、より大型で高速・強力な水雷艇をもってするのが効果的であるという考え方のもとで登場したのが、水雷艇駆逐艦(Torpedo Boat Destroyer, TBD)であった。イギリス海軍の1892年度計画で建造された「ハヴォック」と「デアリング」がその端緒となったが、水雷艇より細長く軽量な船体、コンパクトで大出力の機関、そして発射速度と追随性に優れた速射砲の開発成功に支えられてこの新艦種は成功を収め、後には単に駆逐艦と呼ばれるようになり、たちまち世界各国に普及していった。 このような経緯から、駆逐艦の第一の武器は敵の水雷艇を撃破するための砲であったが、構造的には水雷艇を大型化したものであり、水雷艇の固有任務であった水雷襲撃を、水雷艇では行動困難な悪天候下でも果たしうることから、魚雷も併せ持つようになった。1905年の日本海海戦では、白昼決戦後にウラジオストックに向けて避退するロシア主力部隊に対して日本の水雷戦隊が夜襲を実施したが、駆逐艦は水雷艇よりもはるかに高い確率で敵艦隊を発見して襲撃を実施しており、海戦の勝利を決定づけた。 1880年の英海軍水雷艇 初の水雷艇駆逐艦「ハヴォック」
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