承久の乱は討幕目的であったのか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 13:42 UTC 版)
「承久の乱」の記事における「承久の乱は討幕目的であったのか?」の解説
今日において、承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒するために挙兵したとする見方が通説とされているが、実はこの見方にはいくつもの問題がある。後鳥羽上皇が義時を討伐するために出された院宣および続いて朝廷から出された官宣旨において示された討伐の対象がいずれも義時個人であること、その討伐理由として次期将軍である九条三寅(後の頼経)を軽んじていることを挙げて院宣には討伐の前に鎌倉幕府内部で義時の幕政「奉行」の停止(政治的引退)を説得させようとしていること(討幕目的であれば三寅またはその後見人である北条政子の追討を命じる文言が含まれるはずである)、そしてそれらの文書が送付された対象の中に鎌倉幕府の機関の末端である守護・地頭が含まれていること、そして京都守護である大江親広や在京御家人らがこの命令を奉じて鎌倉の義時討伐に向かっていることなど、討幕を目的とするのであれば矛盾する内容になっている。そのため、近年の研究者の間では承久の乱は討幕目的ではなく、北条義時を幕府から排除する目的であったとするのが有力説であるが、通説を塗り替えるには至っていないというのが現状である。 長村祥知の研究によれば、承久の乱が討幕目的と認識されるようになった背景には、義時を実質上の首班とする鎌倉幕府があたかも上皇が討幕を目的として兵を挙げたとして「京都対坂東」の戦いであると称して御家人を招集したことがあり、その影響を受けた鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や『承久記』の一部本がこの見方に基づいて承久の乱を描いた。さらに『太平記』や『梅松論』などもこれを受け継ぐ形で承久の乱に触れるという形で広まりを見せた。これに対して『百錬抄』『皇代暦』など京都で編纂された歴史書の中には、院宣や官宣旨の内容を受けて義時討伐の戦いとして承久の乱を描いた書が存在していたが、室町時代に入ると京都でも朝廷の事務方を担う外記のトップであった清原業忠および養子の宣賢が『御成敗式目』の注釈において『吾妻鏡』の解釈に基づいて上皇の挙兵を「関東」「武家」の「退治」が目的であったとする解釈を行なった。『吾妻鏡』および清原氏による『御成敗式目』の注釈は戦国時代に知識人の間で広く読まれており、承久の乱を討幕目的とする見方の一般化に大きな影響を与えた。こうして、14世紀から16世紀にかけて承久の乱が実在の文書から裏付けられる事件の実態から乖離した討幕事件として変容・再構成されたと考えられ、それがその後においても大きな影響を与えているとみられている。 一方で、承久の乱当時は“鎌倉幕府”というような武家政権を表現する言葉がなく、討伐の対象としては個人名を上げるのが自然である。平安末期の以仁王の令旨においても討伐対象としては平清盛個人の名前が挙げられており、鎌倉末期の後醍醐天皇の綸旨においても北条高時個人の名前が討伐対象として挙げられている。だからといって以仁王や後醍醐天皇が清盛や高時の排除のみを目指し、平氏政権や鎌倉幕府の打倒を目指していなかったとは考えられない。また幼児の三寅や女性の政子は討伐対象としては不適当であり、義時が当時の幕府の最高権力者であることは明らかなため(後醍醐天皇の綸旨にも、実権の全くなかった当時の幕府の将軍守邦親王の名は成人男性であるにも関わらず挙げられていない)、義時の打倒=倒幕と考えるのが自然だとする反論もある。
※この「承久の乱は討幕目的であったのか?」の解説は、「承久の乱」の解説の一部です。
「承久の乱は討幕目的であったのか?」を含む「承久の乱」の記事については、「承久の乱」の概要を参照ください。
- 承久の乱は討幕目的であったのか?のページへのリンク