批判記事の掲載
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「青年海外協力隊堕落論」の記事における「批判記事の掲載」の解説
大学卒業後、情報処理関連の企業で働いていた石橋慶子は、1988年(昭和63年)3月、青年海外協力隊に合格。職種は「システムエンジニア」。同年10月に長野県駒ヶ根市の駒ケ根訓練所にて派遣前訓練を受け、翌1989年(平成元年)1月からホンジュラスに派遣された。 1989年(平成元年)9月16日朝日新聞朝刊の読者からの投稿を掲載する「声」の欄に、石橋の投稿が掲載された。以下、抜粋引用。 (前略)日本人と文化や習慣、国民性の違う現地の人との人間関係の難しさもさることながら、意外と悩まされるのが、実はこうした日本人との関係なのです。日本国内でのように、多くの日本人の中から、気の合った友人を選べるわけではありません。日ごろの交際範囲は、ほんのひと握りの日本人に限られてしまいます。日本にいる人から見ると、外国という広い世界に出て行ったように見えても、実は、日本人との関係という点では、非常に狭い世界に住まざるをえないのが実情です。そして、裏切られてしまった時、現地の人相手なら、文化の違いとしてあきらめがついても、日本人相手だと余計悲しい思いをしてしまうのです。これは、海外在住の見落とせない問題点ではないでしょうか。外国は、必ずしも、はたから見るほどの自由を約束してはくれないのです。 — 「意外と難しい同胞との交際」 朝日新聞、1989年(平成元年)9月16日付朝刊5面『声』 これについて石橋は「協力隊員のことを悪く書く気持ちなど少しもなかった」としたが、同じホンジュラスに派遣されていた他の協力隊員の強い批判を浴びたと記している。また事前にJICA事務所の許可を得た投稿でなかったことから調整員からも咎められたとしている。この一件を契機とし、石橋は任期を短縮して帰国することを選択し、活動期間1年3ヶ月の任期途中で日本に帰国した。 帰国の3年後、石橋慶子は『新潮45』1994年(平成6年)6月号の誌上に「あえて書く 青年海外協力隊堕落論」を発表した。この記事は石橋自身の協力隊での体験を元に、協力隊員の資質、JICAの体質など協力隊の実態を暴露したとする過激な内容であった(詳しくは後述)。 石橋に触発されるように、『AERA』1994年(平成6年)8月15日・22日合併号に「青年海外協力隊異聞〜華やかさの影に情報過疎の悲哀」と題する記事が掲載された。内容はJICAの協力隊に対する精神主義(要請と現実が大きく異なっていたとしても、自分でなんとかしろという考え方)と管理主義(とにかく問題を起こさないという方針、現地での行動の制限など)などを指摘したものだった。 続いて、フリーライターのオバタカズユキが『諸君!』1994年(平成6年)9月号に「青年海外協力隊症候群」を寄稿した。この記事でオバタは協力隊に参加したK子(仮名)とのやりとりを中心に協力隊OBや協力隊の募集説明会を取材し、青年海外協力隊に参加する人間の資質について批判的な意見を示した。 また1994年(平成6年)7月3日の朝日新聞朝刊の読者投稿欄である「声」に「あまりに粗雑、協力隊試験」という投書が掲載された。協力隊の試験のあり方に疑問を呈する内容だった。 1998年(平成10年)、石橋は『あえて書く青年海外協力隊堕落論』を大幅に加筆し、同期の協力隊員やJICA職員を仮名で表記した『青年海外協力隊の虚像―天下りの温床』を出版した。
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