戴進、呉偉と浙派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)
戴進(1388 - 1462年)は、浙江銭塘(杭州)の人。字は文進。父も画家であった。永楽・宣徳年間に宮廷画家となったが、画家仲間の謝環との確執により帝の怒りを買って、命からがら帰郷し、以後は売画によって生計を立てたと伝える。山水、人物、花鳥のいずれも得意とした。技法は南宋の院体画、元の李郭派、遠くは五代・北宋の董源、巨然を学んだ。戴進の画風は、これら先人の様式に浙江地方様式を加味したものであるが、南宋院体画の自然主義的描写に比べると、平面化・装飾化の傾向があり、山水は斧劈皴(ふへきしゅん)が目立ち、筆法は粗放に向かっている。沈周、文徴明らの呉派に対して、戴進の一派やその系統の画家らを総称して浙派という。浙派という名称は後になって(明末頃)付けられたもので、派名は戴進が浙江銭塘の出身であることに由来する。戴進は、行家(職業画家)とその画風を代表する存在であることから浙派の祖とみなされているが、実際には浙派に分類される画家たちは出身も画風もさまざまであり、呉派の文人画と一線を画すさまざまな画家を大雑把に分類したものが浙派であるといえる。 弘治・正徳年間(1488 - 1521年)の浙派に分類される画家たち、具体的には張路(ちょうろ)、蒋嵩(しょうすう)、汪肇(おうちょう)、鄭顛仙(ていてんせん)、鍾礼(しょうれい)らはいずれも粗放な筆致の水墨による画面構成を特色としており、こうした画風は、後の理論家によって「狂態邪学」として攻撃の的になった。明中期のこの頃を境に浙派は衰え、明後期は後述の呉派が全盛となった。 以下には、「明代の宮廷画家」の節で取り上げた以外の浙派系の画家を列挙する。なお、これらの画家についても呉偉を「江夏派」として浙派とは別扱いにする論者もおり、本節における分類は絶対的なものではない。 呉偉(1459 - 1508年) - 湖北江夏の人。成化から弘治年間にかけて、3度にわたり宮廷出仕と帰郷を繰り返した。孝宗からは「画状元」の印を授かったが(状元とは科挙の首席合格者の意)、性格の激しさから権力者と衝突し、在野で売画生活を続けることが長かった。呉偉の画風にはかなりの振幅があり、若い頃の丁寧で緻密な画風が中期・晩期には粗放さを増した画風に変化している。 張路(1464? - 1538?年) - 祥符(河南開封)の人。嘉靖年間頃に活動した。粗放な筆致の人物・山水をよくした。 蒋嵩(生没年不明) - 金陵(南京)の人。正徳・嘉靖年間(1506 - 1566年)に活動した在野の画家。 汪肇(生没年不明) - 安徽休寧の人。正徳年間に活動。 鄭顛仙(生没年不明) - 福建の人。経歴はほとんど不明だが、山水人物図、龍虎図などが残る。 鍾礼(生没年不明) - 浙江上廬の人。字は欽礼。南宋院体風の山水をよくした。
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