戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:06 UTC 版)
テキサス・テック大学のフォーサイス准教授は、アレティウムでローマは敗北を被り、司令官一人と七人のトリブヌス・ミリトゥム (司令官に次ぐ地位)、13000人の兵士を失ったとした。彼はこの結論をヒッポの聖アウグスティヌスとパウルス・オロシウス(英語版)の著書から導き出している。しかしながら、この二人が書いたのはこの戦いから700年以上後の、五世紀前半である事を明記しておかなければならないだろう。 彼らはキリスト教の聖職者であり、この戦いについて書かれた二人の著書はそもそも、異教時代には多発していた災厄がキリスト教によっていかに改善したかを示すのが狙いであった。オロシウスはアウグスティヌスに勧められて『異教徒に反論する歴史』を書き上げ、その内容は『神の国』と酷似したものとなっている。 彼らはルカニア人、ブルティウム人、サムニウム人、エトルリア人、そしてセノネス族の大連合について書いているが、ありえない事で、サムニウム人、エトルリア人、ウンブリイ族とセノネス族の連合であればこの十数年前の第三次サムニウム戦争中に実現している。 これらのことや彼らの目的を精査すると、記述の信憑性には疑いの余地があり、更に付け加えると、その年の執政官については触れているものの、アレティウムの名は登場しない。 聖アウグスティヌス「ルカニア人、ブルティウム人、サムニウム人、エトルリア人、そしてガリア人セノネス族が一度に反ローマで立ち上がり、まずは使者を殺し、プラエトルの指揮するローマ軍を打ち倒し、司令官と七人のトリブヌス、兵士13000人を剣の餌食とした」 オロシウス「ドラベッラとドミティウスが執政官の年、ルカニア人、ブルティウム人とサムニウム人はエトルリア人、ガリア人セノネス族と連合し、ローマにまた反旗を翻そうとした。ローマはガリア人に思いとどまらせようとしたが、使節は殺されてしまった。プラエトル、カエキリウスはこの無法に報いるため軍団を率い、これらの蜂起を粉砕しようとしたが、ガリア-エトルリア連合軍に逆撃され、討ち死にしてしまった。七人のトリブヌスと多くの貴族が殺され、13000人の兵たちも同様に死を迎えた」
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