戦いの状況とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

戦いの状況とは? わかりやすく解説

戦いの状況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 13:34 UTC 版)

千石堀城」の記事における「戦いの状況」の解説

最初は翌天正13年1585年3月1日小早川隆景軍船出港し中村一氏仙石秀久九鬼嘉隆水軍合流し紀州表の警固についた先発隊として豊臣秀次が3万騎従え同月20日大坂城出発次いで同月21日豊臣秀吉10万余騎を従え出馬した豊臣秀吉同日八ツ半時午後3時ごろ)岸和田城虎口周辺見廻った後、すぐに軍議臨んだ。「当国第一堅城」を攻撃すべきと主張したのは中村一氏で、豊臣秀吉午後4時頃に即時攻撃決断下した着陣早々攻撃には沿道人々驚かせたようである。この時、千石堀城には弓の名手大谷大仁法印城主としており、そこに鉄砲武装した1千数百兵で守っていた。 千石堀城攻め大将には豊臣秀次があたり、これに堀秀政筒井順慶長谷川秀一らが続き、更に田中吉政渡瀬繁詮佐藤秀方ら3千兵が加わった戦闘同日夕刻から翌日未明にかけて行われたようで、まずは大手門取り付き二の丸の柵を破り空堀入った。この時、二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取り本丸にいた城兵見せつけた。しかし、本丸攻めあぐね、豊臣秀次軍の千名ほどの死者出た豊臣秀次軍は攻め急いだが、堀は深く本丸につづく取り払われていたおり、簡単に落城しなかった。この時、秀吉自ら鉄砲取って戦ったという(フロイス日本史』)。持久戦になるかと思われた頃、筒井順慶隊が放った火矢城郭焼き火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め城内にいた根来衆討ち果てた落城の後は放火されたようである。

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戦いの状況

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伏見城の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

本格的な戦闘19日から開始され当初籠城側が打って出前田玄以長束正家らの屋敷焼き払うなどするが、以降攻め手昼夜問わず大小鉄砲打ちかけ、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなど圧力強める。攻め手築山小山)を築いてそこに大筒石火矢設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。しかし孤立した城は8月1日昼ごろに落城鳥居元忠鉄砲鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他に内藤家長父子松平家忠上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。 なおこの伏見城攻防戦様子近隣の郷民たちは小栗栖山から見物している。

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戦いの状況

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中嶋の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

京都奪回し池田城落城させた細川浦上連合軍は、最終目標である堺公方及び細川晴元を倒すべく軍をすすめ、3月10日本陣南摂津周辺に、先鋒住吉勝間現在の大阪市西成区南端玉手付近思われる)に陣をひいた。 劣勢にたっていた晴元三好元長投入することになる。 三好元長柳本賢治折り合い悪く享禄2年1529年8月10日騒ぎ大きくなる前に阿波帰国してしまった。しかしその賢治は亡き者になり、かつて高国によって祖父三好之長殺されたこと、主君晴元苦戦している状況見捨てられなかったのか、要請に応じて享禄4年2月21日に堺に到着3月10日住吉勝間布陣してきた先鋒80兵程を打ち取り細川軍は天王寺までいったん兵をひいた。細川浦上連合軍すぐさま陣変し、細川軍は中嶋浦江現在の大阪市北区大淀周辺思われる)、浦上軍は野田城福島城に陣をひいた。この野田城福島城は、後の野田城・福島城の戦い時に織田信長落とせなかった城で要所として知られている。この両城は、近隣にある富松城西・東富松城のような二カ所一城で、文献上の初見はこの時に浦上村宗築城したと思われている。 元長要請をうけて3月25日晴元従兄阿波守護細川持隆援軍8千兵を送り堺に到着した元長はその援軍晴元及び堺公方足利義維防備軍として堺公方に置き、自身天王寺対陣した。この時の兵力を『細川両家記』では、細川浦上連合軍2万兵、対す三好軍は総勢1万5千兵であったが、堺公方防備軍が8千兵であったため手勢は約7千兵であった思われるそれまで目立った戦闘はなかったが5月13日元長動いた。沢ノ口(現在の大阪市住吉区沢之町周辺思われる)、遠里小野現在の大阪市住吉区遠里小野周辺思われる周辺元長馬廻率いて進出細川澄賢率い別動隊築島不明だが『戦国三好一族』では第一次木津川口の戦い有名な海路木津川口ではないか明記されている)へ、三好一秀阿波精鋭率いて安孫子刈田、堀(現在の大阪市住吉区東南部周辺思われる)にそれぞれ砦を築城した。 両軍阿倍野挟んで矢軍5月後半まで毎日のように繰り返したが、決定的な勝敗はつかず膠着状態になりつつあった。

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桂川原の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

細川高国軍は、主力として鳥羽から辺まで川沿い隙間無く一文字に陣をしき、本陣はそこから少し後方六条12代将軍足義晴自らが陣をしき、後詰の軍として本陣から北側桂川川勝寺武田元光軍が陣をひいた。 2月12日夜中戦闘は川を挟んだ矢の応酬から始まった。 翌2月13日主力への攻撃予想した細川高国に対して三好軍は裏をかいて桂川渡河後詰武田軍襲い掛かった武田軍死者80名を出し敗退した。これに危機感覚えた高国は自ら武田軍救援向かったが、高国親戚(父・政春の従兄弟)にあたる大納言日野内光戦死してしまい、荒木父子戦死馬廻り 10前後 雑兵 300名 を失い撤退した柳本三好連合軍三好長家重傷負ったほか、香西源蔵80名の戦死者出たが、合戦柳本三好連合軍勝利した。なお、これまで戦い観望していた六角軍は晩頭になってからようやく加勢し柳本勢と交戦したという。

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上桜城の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

三好長治の命を受けた十河存保総大将として阿波国飛騨守井沢右近大輔讃岐国香川氏香西氏淡路国の兵の総勢7千人紀伊国増援3千人鉄砲千丁)を加え元亀4年1573年6月手始め篠原長房懇意であった赤沢宗伝がいる板西城攻撃した。またその一方で十河存保軍約7000兵が上桜城に向っていた。篠原長房はこの動き察知し上桜城出丸役割果たしていた善入寺と東弾寺に1500兵を集め吉野川挟んで対陣した。この時篠原長房は川を深く掘りおこしたようで、吉野川急流となり一挙に渡河させなかった。ゲリラ戦となったが、次第封鎖戦となり包囲狭めていき、上桜城押し込まれる同時に兵糧武器補給路も断ち切られ戦闘継続が困難となってきた。その間隙に乗じて十河存保軍は出丸となっていた善入寺と東弾寺を打ち破り大日寺非現存)に陣を構えた敗戦濃厚思ったのか、篠原長房妻と子供3名に家臣2名を付け、妻の里であった教行寺の兼詮のもとに逃がした同年7月15日夜中残存兵力城下結集させ、翌16日早朝上桜城本丸周辺放火させ篠原長房長男篠原長重当時18歳)は大日寺突入した十河存保軍は慌て長重が存保がいる本陣西門から迫ったが、背後から香西氏家臣植松資久討ち取られた。長房も敵陣の中で戦死した戦場上桜城山麓から大日寺広範囲わたっており、双方死者3000名とも言われている。

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比叡山焼き討ち (1571年)」の記事における「戦いの状況」の解説

当時比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕であった比叡山京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。 先の比叡山攻防戦では、比叡山側は信長横領した寺領返還約束する講和拒絶し浅井朝倉連合軍援けたりもしたので、信長側は軍事的拠点を完全に破却しようと考えたとされている。信長包囲網各勢力から包囲される中、近江平定比叡山無力化が戦線打破重要課題考えられていた。比叡山無力化とは、比叡山信長方に属さない以上、軍事的役割抹殺つまり比叡山徹底的破壊意味している。 この動き察知した延暦寺は、黄金判金300を、また堅田からは200贈って攻撃中止嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺住んでいた僧侶僧兵達を山頂にある根本中堂集合させ、また坂本住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。 元亀2年1571年9月12日織田信長全軍総攻撃命じた。まず織田信長軍坂本堅田周辺放火し、それを合図攻撃始まった。『信長公記』にはこの時の様子が「九月十二日、叡山取詰め根本中堂山王二十一社初め奉り仏、社、僧坊経巻一宇残さず一時に雲霞のごとく焼き払い灰燼の地と為社哀れなれ、山下男女老若、右往、左往に廃忘致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る僧俗児童智者上人一々に首をきり、信長公の御目懸け、是は山頭において其隠れなき高僧貴僧有智の僧と申し、其他美女小童其員を知れず召捕り」(『信長公記』) と記されている。坂本周辺住んでいた僧侶僧兵達や住民たちは日吉大社奥宮八王子山地図立て篭もったようだが、ここも焼かれた。この戦いで死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイス書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000-4,000名と記されている。

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観音寺城の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

しかし信長行動はその裏をかいた格好となった9月12日早朝織田軍は愛知川渡河すると、3隊に分かれた稲葉良通率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家森可成率いる第2隊は観音寺城へ、信長滝川一益丹羽長秀木下秀吉らの第3隊が箕作城向かった戦端箕作城ひらかれた木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃開始した。この箕作城というのは急坂大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守り固く午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。 木下隊では評議行い夜襲決行することになる。木下秀吉は、3尺の松明数百用意させ、中腹まで50箇所配置し一斉に火をつけ、これを合図攻撃した7時間以上戦ったその日のうちに夜襲仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き防戦したが支えきれず、夜明け前落城してしまった。200上の首級上がった箕作城落城知った和田山城兵は、戦わず逃亡してしまった。 長期戦想定していた六角義治は、戦端開かれてから1日立たず箕作城和田山城落ちたことに落胆し観音寺城防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜間甲賀逃走した当主失った18支城は、1つ除き織田軍に降り、ここに大勢決した。この戦い織田軍の損害1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。 なお、六角氏研究者である新谷和之によれば六角氏防衛戦最前線の城で相手迎撃する方法取っており、観音寺城そのもの攻められたのは明応5年1496年)に斎藤妙純攻撃して以来実に70年ぶりであったまた、こうした防衛戦略から戦国期観音寺城防御拠点としてよりも近江国政庁守護所としての機能強化され東山道に対してきわめて開放的な構造になっていたために観音寺城攻められ場合防衛戦困難になっており、織田信長直接観音寺城向かって進撃することは六角氏にとっては想定外であった分析している。

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辰市城」の記事における「戦いの状況」の解説

信長謀反おこした久秀は筒井討伐開始した同年8月4日信貴山城出立した松永軍三好義継援軍多聞山城出立した息子松永久通の軍と大安寺合流し辰市城での合戦開始される。この時の戦いの様子が「筒井松永ノ両勢対陣シ、互二時ノ声三度シテ 弓鉄砲ヲ居掛タリソノ四方二響渡リ、樹海二応ヘテ天地震動スルカト覚ヘタリ」(『和州諸将軍伝』)と記されている。 戦い長時間渡って続いた思われている。大軍押し寄せた松永軍は、塀を引き落とし、堀にをかけて攻城戦仕掛けてきた。当初松永軍優勢であったが、高樋城、椿尾上城郡山城から順慶への援軍到着し松永軍反撃していく。これに加え福住中定城にいた福住順弘山田順清隊が来援し始める松永軍崩れ始めてくる。松永軍多く武将をはじめ首級500の他に手負い500数え鉄砲、刀等を捨てて多聞山城にたどり着き、「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてのことだ」と記載されている(『多聞院日記』)。一方筒井軍も援軍駆け付けた山田順清をはじめ多く武将討ち取られた。

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石那坂の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

石那坂の守将は、信夫庄司佐藤基治で、継信・忠信等の父である。佐藤庄司叔父に当たる河辺太郎高経・伊賀良目七郎高重らと信夫の兵をもって石那坂の山上に陣を構えていた。逢隈河に流れ込む河川天然の堀として砦を構え石弓張って討手待っていた。頼朝方は、後に伊達氏始祖となった常陸入道念西の子常陸冠者為宗二郎重・三郎資綱・四郎為家が甲冑身を固めて秋風茂る草原の中を潜行して伊達郡沢原進出した先ず登り佐藤庄司らに矢石浴せ死闘がくり返された。佐藤庄司らは死を争いながら激しく戦い挑む。為重・資綱・為家らは傷を負ったが、長男為宗殊に命を忘れて抜群の功を立て信夫の兵を倒し為宗兄弟らは、庄司以下宗者18人の首をとった。そして、阿津賀志山の山頂経岡に晒した

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黒井城の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

光秀越前より近江国坂本城帰城し、戦の準備整えて同年10月出陣した考えられている。この時直正は竹田城居たか。明智光秀動き察知した直正は黒井城帰還臨戦態勢整えた10月1日信長は、丹波国人の片岡藤五郎朱印状出して光秀への助力命じており、多紀郡八上城波多野秀治をはじめ、丹波国衆の過半光秀方に付いていた。 光秀黒井城周囲12、3か所の陣を築き黒井城包囲したこの頃戦況光秀に有利であり、この戦況について光秀は「城の兵糧来春までは続かない落城するであろう」と楽観しており、戦い順調に推移していた(『八木豊信書状』)。しかし攻城戦開始後2か月以上が経過した天正4年1576年1月15日波多野秀治軍が突如謀反起こし明智軍背後攻撃してきたため、明智軍退却することとなった。この戦い丹波奥深く誘い込んだ敵方一気殲滅する形となっており、「赤井呼び込み軍法」と呼ばれている。 この戦い秀治の裏切りにより勝敗がついたが、呼び込みという言い方は適切ではない。なぜこのような言い方伝わったか、信長朱印状返事どのようするか、丹波国人衆が集まり協議行い「直正のみが信長意向従わない他の国人衆は信長に従うので直正を討ち滅ぼしてほしい」という偽りの返事をしたのではないか指摘されている。『籾井家日記』には「直正と秀治の間には密約があり予定行動であった」という記載があるが、「その記述信用できるものではない」と指摘されており、また「赤井波多野両家姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性があるものの、はっきりした記録はない」とも指摘されている。

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黒井城の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い波多野家からの援軍無く黒井城支城もその多く落城してしまい兵力激減していたと推測される戦い8月9日早朝開始光秀敗北終わった前回攻略戦反省活かして慎重に攻め込み仮想陣地に火をかけたりほら貝吹いて混乱装い攻めると見せかけ退いたり、勢い乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりと縦横無尽攻撃した。その遊撃戦最中明智軍四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦を攻め落とし主曲輪向けて総攻撃仕掛けた明智軍誘導作戦主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず、赤井忠家奮戦したが、最後は城に自ら火を放ち敗走する。この時の状況は「八月九日赤井悪右衛門籠り黒井へ取懸け推し詰め候ところ、人数をだし候。則ち、口童(口+童)と付け入るに、外くるはまで込み入り、随分の者十余人討ち取るところ、種々降参候て、退出」(『信長公記』)と記載されている。後一息殲滅できるところでありながら殲滅をしなかったのは、窮鼠猫を噛むの諺のように損害を出すのを嫌ったか、両者取り持つ適当な仲介者居た可能性もある。当時合戦は、限られた地域内の住人が、敵味方になって戦う事が多く地域血縁仲介役になる者が居る場合多かった

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船岡山合戦」の記事における「戦いの状況」の解説

開戦直前、義澄の擁護者であった近江国六角氏において内紛勃発その結果当主である六角高頼が義澄方への与力をあくまで主張する守護代伊庭氏抑えて義稙方に寝返り、それを知った盟主である義澄が失意のうちに病死するという大事件起きたが、澄元達戦意衰えず、澄元方細川政賢主将として丹波山城との要衝である船岡山陣取り防戦試みた。 しかし、西国国人領主大半動員した大内軍は強大であり、澄元方援軍として京都向かっていた赤松義村北摂津の伊丹城にて高国方の抵抗遭遇して京都入れず、澄元方切り札であった阿波細川三好軍の畿内上陸もなかった。京都脱出した義稙高国・義興は依然として2万越える兵を維持していたのに対して京都入った元方細川政賢の2千・細川元常の1千・山中為俊の3千の合わせて6千人であったとされる大内軍を含んだ高国方が夜襲をしかけると、政賢は戦死するなど澄元方敗れ京都は再び義稙の手帰した

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山科本願寺の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

8月23日山科本願寺への布陣整った攻城軍大まかに以下の4軍で成り立っていた。 主力法華一揆山科本願寺東側粟田口 山村正次率い柳本山科本願寺南側汁谷六角定頼山科本願寺西側大津への東口 付近50郷土一揆山科本願寺北側東岩倉山 このように四方取り込むようにして完全に包囲した。この時の攻城軍は3万とも4万と言われている。戦い8月24日早朝より開始された。山科本願寺の「水落」と呼ばれる場所から軍勢侵入し家屋火を掛けると、午前10時ぐらいに諸口からも攻城軍乱入し寺町周辺放火し回り大勢決した山科本願寺社坊ひとつ残さずになって落城した。一説には包囲軍の寄せ手時間稼ぎ和睦申し込んでいた最中で、山科本願寺油断し隙を突かれと言われる。 この時の状況は、天文元年8月24日私心記』の条に 昨日ヨリ今日ニ至マデ城中ニシテ強也、然処兵庫介、和睦之噯トシテ人質ニ出、源次郎内へ取時、諸勢、水落ヨリ乱入シテ火ヲカケ候間、一時之間ニ、寺中御坊堂等焼失候 — 私心記 と記載されており、乱入から短期間御坊堂等が炎上した考えられている。『私心記』の著者である蓮如末子実従は、証如山科本願寺から連れ出して親鸞聖人御影寺宝ともども大坂御坊退却した

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如意ヶ嶽の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

この状況打開するため澄元・之長は翌永正6年1509年6月琵琶湖渡り尾関越から6月17日如意ヶ嶽に3千名布陣をした。これに対して高国大内連合軍2万から3兵で如意ヶ嶽取り込むように布陣をした。その後戦闘状態に突入したが、澄元・之長らは阿波逃走した。 澄元・之長らの京都奪還失敗終わったが、まだ脅威残っていた。それは義稙将軍職奪われ足利義澄であり、高国入京入れ替わるように義澄は京都から逃走し九里氏を頼り近江岡山城入ったが、10月2日高国と義興は追討軍を差し向け岡山城戦いに続くことになる。

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信貴山城の戦い」の記事における「戦いの状況」の解説

戦いは翌10月5日から開始された。4の軍が一斉に攻城開始したが、信貴山城簡単に落城しなかった。この日の戦いを、久秀の武将飯田基次が率い200余人が斬り出て織田数百人が手負い、または討たれたとあるので松永軍抵抗必死であった考えられる(『和州諸将軍伝』)。戦い持久戦様相呈してきた。信長はこの日、久秀の質子(久通息子で久秀の孫、当時12歳13歳)を洛中引き回しの上六条河原斬首した。 10月5日戦いで勝利した松永軍ではあったが、織田軍との兵力差は圧倒的であったため、もう一つ密約相手である顕如至急援軍要請することにし、その使者好久という人物選んだ好久は10月7日信貴山城出立、翌10月8日石山本願寺から加賀鉄砲衆200名を引き連れて信盛の兵に紛れて帰城三の丸付近に配置した好久の報告によると、両三日中に毛利軍から更なる援軍到着しそのようになれば石山本願寺からも更なる援軍差し向ける事が出来ると顕如申していたといい、久秀は喜んだという。 しかしこの鉄砲衆200名が信貴山城落城きっかけとなる。好久は筒井順慶の元譜代で、順慶居城筒井城落城すると牢人となっていたが、その後久秀に仕官し、その才覚から落城直前には信頼得ていたと思われている。しかし、好久は信貴山城出立すると、そのまま順慶部将松倉重信陣所駆け込み信貴山城内情知らせた順慶は好久に金子三十両を与え虎の子鉄砲衆200名を預け伏兵とするように命じたとされている(『和州諸将軍伝』)。 その後、「夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了」(『多聞院日記』)とあるので、翌10月9日午後6時前後よりすでに戦闘開始されていたと思われる。しかし、再び総がかり攻城は翌10月10日明朝からで、織田信忠許可得て筒井順慶前線に立ち攻撃した。これに対し松永軍は弓と鉄砲抵抗、門からも討ってでたりし筒井隊は一度押し返された。 そんな中天守に近い三の丸付近から火の手上がった好久が率い鉄砲衆200名が反乱起こしたので、これにより軍としての統率力無くなったようである。 松永久秀久通父子自害した。久秀は68歳久通35歳であった。また安土城天守モデルとも言われている信貴山城四層天守は、この時に炎上した思われる

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