戦いの状況
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最初は翌天正13年(1585年)3月1日小早川隆景軍船が出港し、中村一氏、仙石秀久、九鬼嘉隆の水軍と合流し、紀州表の警固についた。 先発隊として豊臣秀次が3万騎を従え同月20日大坂城を出発、次いで同月21日豊臣秀吉は10万余騎を従え出馬した。豊臣秀吉は同日八ツ半時(午後3時ごろ)岸和田城の虎口周辺を見廻った後、すぐに軍議に臨んだ。「当国第一の堅城」を攻撃すべきと主張したのは中村一氏で、豊臣秀吉も午後4時頃に即時攻撃の決断を下した。着陣早々の攻撃には沿道の人々を驚かせたようである。この時、千石堀城には弓の名手大谷左大仁法印が城主としており、そこに鉄砲で武装した1千数百兵で守っていた。 千石堀城攻めの大将には豊臣秀次があたり、これに堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らが続き、更に田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3千兵が加わった。戦闘は同日の夕刻から翌日の未明にかけて行われたようで、まずは大手門に取り付き、二の丸の柵を破り空堀に入った。この時、二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取り、本丸にいた城兵に見せつけた。しかし、本丸は攻めあぐね、豊臣秀次軍の千名ほどの死者が出た。豊臣秀次軍は攻め急いだが、堀は深く、本丸につづく橋は取り払われていたおり、簡単には落城しなかった。この時、秀吉自ら鉄砲を取って戦ったという(フロイス『日本史』)。持久戦になるかと思われた頃、筒井順慶隊が放った火矢が城郭を焼き、火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め、城内にいた根来衆は討ち果てた。落城の後は放火されたようである。
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戦いの状況
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本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどするが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなど圧力を強める。攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。しかし孤立した城は8月1日昼ごろに落城。鳥居元忠は鉄砲頭鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他に内藤家長父子・松平家忠・上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。 なおこの伏見城攻防戦の様子を近隣の郷民たちは小栗栖の山から見物している。
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戦いの状況
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京都を奪回し、池田城を落城させた細川・浦上連合軍は、最終目標である堺公方及び細川晴元を倒すべく軍をすすめ、3月10日、本陣は南摂津周辺に、先鋒は住吉の勝間(現在の大阪市西成区の南端、玉手付近と思われる)に陣をひいた。 劣勢にたっていた晴元は三好元長を投入することになる。 三好元長は柳本賢治と折り合いが悪く、享禄2年(1529年)8月10日に騒ぎが大きくなる前に阿波へ帰国してしまった。しかしその賢治は亡き者になり、かつて高国によって祖父三好之長を殺されたこと、主君晴元が苦戦している状況を見捨てられなかったのか、要請に応じて享禄4年2月21日に堺に到着、3月10日に住吉の勝間に布陣してきた先鋒軍80兵程を打ち取り、細川軍は天王寺までいったん兵をひいた。細川・浦上連合軍はすぐさま陣変し、細川軍は中嶋の浦江(現在の大阪市北区、大淀周辺と思われる)、浦上軍は野田城・福島城に陣をひいた。この野田城・福島城は、後の野田城・福島城の戦いの時に織田信長が落とせなかった城で要所として知られている。この両城は、近隣にある富松城(西・東富松城)のような二カ所一城で、文献上の初見はこの時に浦上村宗が築城したと思われている。 元長の要請をうけて3月25日、晴元の従兄の阿波守護細川持隆が援軍8千兵を送り堺に到着した。元長はその援軍を晴元及び堺公方足利義維の防備軍として堺公方に置き、自身は天王寺に対陣した。この時の兵力を『細川両家記』では、細川・浦上連合軍は2万兵、対する三好軍は総勢1万5千兵であったが、堺公方の防備軍が8千兵であったため手勢は約7千兵であったと思われる。 それまでは目立った戦闘はなかったが5月13日に元長が動いた。沢ノ口(現在の大阪市住吉区、沢之町周辺と思われる)、遠里小野(現在の大阪市住吉区、遠里小野周辺と思われる)周辺に元長が馬廻を率いて進出、細川澄賢率いる別動隊が築島(不明だが『戦国三好一族』では第一次木津川口の戦いで有名な海路木津川口ではないかと明記されている)へ、三好一秀が阿波の精鋭を率いて安孫子、刈田、堀(現在の大阪市住吉区、東南部周辺と思われる)にそれぞれ砦を築城した。 両軍は阿倍野の森を挟んで矢軍を5月後半まで毎日のように繰り返したが、決定的な勝敗はつかず膠着状態になりつつあった。
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戦いの状況
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細川高国軍は、主力として鳥羽から鷺の森辺まで川沿いに隙間無く一文字に陣をしき、本陣はそこから少し後方の六条に12代将軍足利義晴自らが陣をしき、後詰の軍として本陣から北側、桂川の川勝寺に武田元光軍が陣をひいた。 2月12日夜中、戦闘は川を挟んだ矢の応酬から始まった。 翌2月13日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏をかいて桂川を渡河、後詰の武田軍に襲い掛かった。武田軍は死者80名を出し敗退した。これに危機感を覚えた高国は自ら武田軍に救援に向かったが、高国の親戚(父・政春の従兄弟)にあたる大納言・日野内光は戦死してしまい、荒木父子も戦死、 馬廻り 10名前後 雑兵 300名 を失い撤退した。柳本・三好連合軍も三好長家が重傷を負ったほか、香西源蔵ら80名の戦死者が出たが、合戦は柳本・三好連合軍が勝利した。なお、これまで戦いを観望していた六角軍は晩頭になってからようやく加勢し、柳本勢と交戦したという。
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戦いの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 08:11 UTC 版)
三好長治の命を受けた十河存保を総大将として阿波国の森飛騨守、井沢右近大輔、讃岐国の香川氏、香西氏、淡路国の兵の総勢7千人、紀伊国の増援3千人(鉄砲千丁)を加え、元亀4年(1573年)6月、手始めに篠原長房と懇意であった赤沢宗伝がいる板西城を攻撃した。またその一方で十河存保軍約7000兵が上桜城に向っていた。篠原長房はこの動きを察知し上桜城の出丸的役割を果たしていた善入寺と東弾寺に1500兵を集め吉野川を挟んで対陣した。この時篠原長房は川を深く掘りおこしたようで、吉野川は急流となり一挙に渡河させなかった。ゲリラ戦となったが、次第に封鎖戦となり包囲を狭めていき、上桜城に押し込まれると同時に兵糧、武器の補給路も断ち切られ戦闘継続が困難となってきた。その間隙に乗じて、十河存保軍は出丸となっていた善入寺と東弾寺を打ち破り、大日寺(非現存)に陣を構えた。 敗戦濃厚と思ったのか、篠原長房の妻と子供3名に家臣2名を付け、妻の里であった教行寺の兼詮のもとに逃がした。同年7月15日夜中残存兵力を城下に結集させ、翌16日早朝上桜城の本丸周辺を放火させ篠原長房と長男篠原長重(当時18歳)は大日寺に突入した。十河存保軍は慌て、長重が存保がいる本陣に西門から迫ったが、背後から香西氏の家臣植松資久の討ち取られた。長房も敵陣の中で戦死した。戦場は上桜城の山麓から大日寺の広範囲にわたっており、双方の死者は3000名とも言われている。
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戦いの状況
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「比叡山焼き討ち (1571年)」の記事における「戦いの状況」の解説
当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕であった。比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。 先の比叡山の攻防戦では、比叡山側は信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒絶し、浅井・朝倉連合軍を援けたりもしたので、信長側は軍事的拠点を完全に破却しようと考えたとされている。信長包囲網で各勢力から包囲される中、近江の平定と比叡山の無力化が戦線打破の重要課題と考えられていた。比叡山の無力化とは、比叡山が信長方に属さない以上、軍事的役割の抹殺つまり比叡山の徹底的破壊を意味している。 この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金300を、また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。 元亀2年(1571年)9月12日、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に攻撃が始まった。『信長公記』にはこの時の様子が「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」(『信長公記』) と記されている。坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山地図に立て篭もったようだが、ここも焼かれた。この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000-4,000名と記されている。
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戦いの状況
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しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉らの第3隊が箕作城に向かった。 戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。 木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜間に甲賀へ逃走した。当主を失った18の支城は、1つを除き織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。 なお、六角氏の研究者である新谷和之によれば、六角氏の防衛戦は最前線の城で相手を迎撃する方法を取っており、観音寺城そのものを攻められたのは明応5年(1496年)に斎藤妙純が攻撃して以来実に70年ぶりであった。また、こうした防衛戦略から戦国期の観音寺城は防御の拠点としてよりも近江国の政庁(守護所)としての機能が強化され、東山道に対してはきわめて開放的な構造になっていたために観音寺城が攻められた場合の防衛戦が困難になっており、織田信長が直接観音寺城に向かって進撃することは六角氏にとっては想定外であったと分析している。
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戦いの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 23:59 UTC 版)
信長に謀反をおこした久秀は筒井軍討伐を開始した。同年8月4日信貴山城を出立した松永軍は三好義継の援軍と多聞山城を出立した息子の松永久通の軍と大安寺で合流し、辰市城での合戦が開始される。この時の戦いの様子が「筒井松永ノ両勢対陣シ、互二時ノ声三度合シテ 弓鉄砲ヲ居掛タリ、ソノ声四方二響渡リ、樹海二応ヘテ、天地モ震動スルカト覚ヘタリ」(『和州諸将軍伝』)と記されている。 戦いは長時間に渡って続いたと思われている。大軍で押し寄せた松永軍は、塀を引き落とし、堀に橋をかけて攻城戦を仕掛けてきた。当初松永軍は優勢であったが、高樋城、椿尾上城、郡山城から順慶への援軍が到着し松永軍へ反撃していく。これに加え福住中定城にいた福住順弘、山田順清隊が来援し始めると松永軍は崩れ始めてくる。松永軍の多くの武将をはじめ首級500の他に手負い500を数え、鉄砲、槍、刀等を捨てて多聞山城にたどり着き、「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてのことだ」と記載されている(『多聞院日記』)。一方、筒井軍も援軍に駆け付けた山田順清をはじめ多くの武将が討ち取られた。
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戦いの状況
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石那坂の守将は、信夫庄司佐藤基治で、継信・忠信等の父である。佐藤庄司は叔父に当たる河辺太郎高経・伊賀良目七郎高重らと信夫の兵をもって石那坂の山上に陣を構えていた。逢隈河に流れ込む河川を天然の堀として砦を構え、石弓を張って討手を待っていた。頼朝方は、後に伊達氏の始祖となった常陸入道念西の子、常陸冠者為宗・二郎為重・三郎資綱・四郎為家が甲冑に身を固めて秋風茂る草原の中を潜行して伊達郡沢原に進出した。先ず登り、佐藤庄司らに矢石を浴せ、死闘がくり返された。佐藤庄司らは死を争いながら激しく戦いを挑む。為重・資綱・為家らは傷を負ったが、長男為宗は殊に命を忘れて抜群の功を立て信夫の兵を倒し、為宗兄弟らは、庄司以下宗者18人の首をとった。そして、阿津賀志山の山頂経岡に晒した。
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戦いの状況
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光秀は越前より近江国坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月に出陣したと考えられている。この時直正は竹田城に居たか。明智光秀の動きを察知した直正は黒井城に帰還、臨戦態勢を整えた。10月1日に信長は、丹波国人の片岡藤五郎に朱印状を出して光秀への助力を命じており、多紀郡八上城の波多野秀治をはじめ、丹波国衆の過半は光秀方に付いていた。 光秀は黒井城の周囲に12、3か所の陣を築き、黒井城を包囲した。この頃の戦況は光秀に有利であり、この戦況について光秀は「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と楽観しており、戦いは順調に推移していた(『八木豊信書状』)。しかし攻城戦開始後2か月以上が経過した翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が突如謀反を起こし明智軍の背後を攻撃してきたため、明智軍は退却することとなった。この戦いは丹波奥深くに誘い込んだ敵方を一気に殲滅する形となっており、「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれている。 この戦いは秀治の裏切りにより勝敗がついたが、呼び込みという言い方は適切ではない。なぜこのような言い方が伝わったか、信長の朱印状の返事をどのようするか、丹波国人衆が集まり協議を行い「直正のみが信長の意向に従わない、他の国人衆は信長に従うので直正を討ち滅ぼしてほしい」という偽りの返事をしたのではないかと指摘されている。『籾井家日記』には「直正と秀治の間には密約があり予定の行動であった」という記載があるが、「その記述は信用できるものではない」と指摘されており、また「赤井、波多野両家は姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性があるものの、はっきりした記録はない」とも指摘されている。
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戦いの状況
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赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍も無く、黒井城の支城もその多くが落城してしまい、兵力も激減していたと推測される。 戦いは8月9日早朝開始、光秀は敗北に終わった前回の攻略戦の反省を活かして慎重に攻め込み、仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりと縦横無尽に攻撃した。その遊撃戦の最中、明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦を攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けた。明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず、赤井忠家も奮戦したが、最後は城に自ら火を放ち敗走する。この時の状況は「八月九日赤井悪右衛門楯籠り候黒井へ取懸け、推し詰め候ところ、人数をだし候。則ち、口童(口+童)と付け入るに、外くるはまで込み入り、随分の者十余人討ち取るところ、種々降参候て、退出」(『信長公記』)と記載されている。後一息で殲滅できるところでありながら、殲滅をしなかったのは、窮鼠猫を噛むの諺のように損害を出すのを嫌ったか、両者を取り持つ適当な仲介者が居た可能性もある。当時の合戦は、限られた地域内の住人が、敵味方になって戦う事が多く、地域・血縁で仲介役になる者が居る場合も多かった。
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戦いの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 07:09 UTC 版)
開戦の直前、義澄の擁護者であった近江国六角氏において内紛が勃発、その結果、当主である六角高頼が義澄方への与力をあくまで主張する守護代の伊庭氏を抑えて義稙方に寝返り、それを知った盟主である義澄が失意のうちに病死するという大事件が起きたが、澄元達の戦意は衰えず、澄元方の細川政賢を主将として丹波と山城との要衝である船岡山に陣取り防戦を試みた。 しかし、西国の国人領主の大半を動員した大内軍は強大であり、澄元方の援軍として京都へ向かっていた赤松義村は北摂津の伊丹城にて高国方の抵抗に遭遇して京都に入れず、澄元方の切り札であった阿波細川・三好軍の畿内上陸もなかった。京都を脱出した義稙・高国・義興は依然として2万を越える兵を維持していたのに対して、京都に入った澄元方は細川政賢の2千・細川元常の1千・山中為俊の3千の合わせて6千人であったとされる。大内軍を含んだ高国方が夜襲をしかけると、政賢は戦死するなど澄元方は敗れ、京都は再び義稙の手に帰した。
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戦いの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 01:21 UTC 版)
8月23日、山科本願寺への布陣が整った。攻城軍は大まかに以下の4軍で成り立っていた。 主力:法華一揆衆山科本願寺の東側:粟田口 山村正次率いる柳本勢山科本願寺の南側:汁谷口 六角定頼軍山科本願寺の西側:大津への東口 付近の50余郷土民一揆勢山科本願寺の北側:東岩倉山 このように四方を取り込むようにして完全に包囲した。この時の攻城軍は3万とも4万とも言われている。戦いは8月24日早朝より開始された。山科本願寺の「水落」と呼ばれる場所から軍勢が侵入し家屋に火を掛けると、午前10時ぐらいに諸口からも攻城軍が乱入し、寺町周辺を放火して回り大勢が決した。山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰になって落城した。一説には包囲軍の寄せ手の時間稼ぎに和睦を申し込んでいた最中で、山科本願寺は油断し隙を突かれたと言われる。 この時の状況は、天文元年8月24日『私心記』の条に 昨日ヨリ今日ニ至マデ、城中静ニシテ強也、然処兵庫介、和睦之噯トシテ人質ニ出、源次郎内へ取時、諸勢、水落ヨリ乱入シテ火ヲカケ候間、一時之間ニ、寺中御坊堂等焼失候 — 私心記 と記載されており、乱入から短期間で御坊堂等が炎上したと考えられている。『私心記』の著者である蓮如の末子実従は、証如を山科本願寺から連れ出して親鸞聖人御影や寺宝ともども大坂御坊へ退却した。
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戦いの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 00:02 UTC 版)
この状況を打開するため澄元・之長は翌永正6年(1509年)6月に琵琶湖を渡り、尾関越から6月17日に如意ヶ嶽に3千名で布陣をした。これに対して高国・大内連合軍は2万から3万兵で如意ヶ嶽を取り込むように布陣をした。その後戦闘状態に突入したが、澄元・之長らは阿波へ逃走した。 澄元・之長らの京都奪還は失敗に終わったが、まだ脅威は残っていた。それは義稙に将軍職を奪われた足利義澄であり、高国の入京と入れ替わるように義澄は京都から逃走し、九里氏を頼り近江岡山城に入ったが、10月2日に高国と義興は追討軍を差し向け岡山城の戦いに続くことになる。
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戦いの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 21:09 UTC 版)
戦いは翌10月5日から開始された。4万の軍が一斉に攻城を開始したが、信貴山城は簡単には落城しなかった。この日の戦いを、久秀の武将飯田基次が率いる200余人が斬り出て、織田軍数百人が手負い、または討たれたとあるので松永軍の抵抗も必死であったと考えられる(『和州諸将軍伝』)。戦いは持久戦の様相を呈してきた。信長はこの日、久秀の質子(久通の息子で久秀の孫、当時12歳と13歳)を洛中引き回しの上、六条河原で斬首した。 10月5日の戦いでは勝利した松永軍ではあったが、織田軍との兵力差は圧倒的であったため、もう一つの密約の相手である顕如に至急援軍を要請することにし、その使者に森好久という人物を選んだ。森好久は10月7日信貴山城を出立、翌10月8日石山本願寺から加賀鉄砲衆200名を引き連れて信盛の兵に紛れて帰城し三の丸付近に配置した。森好久の報告によると、両三日中に毛利軍から更なる援軍が到着し、そのようになれば石山本願寺からも更なる援軍を差し向ける事が出来ると顕如が申していたといい、久秀は喜んだという。 しかしこの鉄砲衆200名が信貴山城落城のきっかけとなる。森好久は筒井順慶の元譜代で、順慶の居城筒井城が落城すると牢人となっていたが、その後久秀に仕官し、その才覚から落城直前には信頼を得ていたと思われている。しかし、好久は信貴山城を出立すると、そのまま順慶の部将松倉重信の陣所に駆け込み、信貴山城の内情を知らせた。順慶は好久に金子三十両を与え、虎の子の鉄砲衆200名を預け伏兵とするように命じたとされている(『和州諸将軍伝』)。 その後、「夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了」(『多聞院日記』)とあるので、翌10月9日の午後6時前後よりすでに戦闘は開始されていたと思われる。しかし、再び総がかりの攻城は翌10月10日明朝からで、織田信忠の許可を得て筒井順慶は前線に立ち攻撃した。これに対し松永軍は弓と鉄砲で抵抗、門からも討ってでたりし筒井隊は一度は押し返された。 そんな中、天守に近い三の丸付近から火の手が上がった。森好久が率いる鉄砲衆200名が反乱を起こしたので、これにより軍としての統率力は無くなったようである。 松永久秀・久通父子は自害した。久秀は68歳、久通は35歳であった。また安土城の天守のモデルとも言われている信貴山城の四層の天守櫓は、この時に炎上したと思われる。
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