戦いの推移
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6月16日、北条氏直が倉賀野方面に進軍した。 6月18日、初戦は滝川勢が、北条氏邦の配下であった斎藤光透とその弟・斎藤基盛が守る金窪城(武蔵児玉郡)と川井城を攻め、陥落させた。更に金窪原で行われた合戦では、信玄・勝頼の旧臣を主体とした上州衆と滝川勢が、北条氏邦の鉢形衆5千と戦い、石山大学、保坂大炊介を討ち取ったが、上州衆も佐伯伊賀守が討ち取られた。しかし最終的には北条方が敗れて追撃を受け二百余人が討ち取られた。またこの戦いに北条氏直も参加し、「鉢形衆3百人に加え氏直の身辺の者多数が討ち取られた」との記録もある(松平義行氏所蔵文書)。 6月19日の合戦では、先ず北条氏直が2万の兵を率い、滝川一益は手勢3千を率いて戦い、北条氏直の兵が敗走した。北条氏政はこれを見て1万の兵を弟の北条美濃守氏則(氏規)に与え滝川勢を囲み攻めた。一益は当初の手筈通りに後陣の上州衆を投入しようとしたが北条高広をはじめとする諸将の出足が鈍く進軍してこなかった。これを見て滝川一益は、関東衆は頼りにならないと考え、「運は天にあり、死生命あり、敵中に打ち入りて、討死せよ」と下知し敵中に討ち入った。この為、囲んだ北条方は逆に追い立てられ、最後には北条氏則が30騎程で打ってかかり滝川勢と渡り合った。この時、北条方の3百余人が討死したという。しかし兵を立て直した北条氏直が再度滝川勢を攻めると、滝川一益も終に破れ夕刻には敗走した。この時、滝川方の重臣・篠岡、津田、太田、栗田など5百騎が踏み止まって討死し、滝川方の上州衆では木部貞朝、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した。
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戦いの推移
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陳友諒の船団は、巨艦を集めて艦と艦を鎖で繋いで陣としていた。一方、朱元璋の船団は、小型船が中心であり、火力を重視していた。さらには、朱元璋は決戦の4日前、ひそかに伏兵を湖口に伏せていた。朱元璋の軍は小型船が多く、陳友諒の巨艦に恐れをなして戦いは不利であり、陳友諒の配下の勇将張定辺が一時朱元璋の旗艦に肉薄するほどの苦戦となった。しかし陳友諒側は長期包囲戦の後の疲労もあり、兪通海率いる火砲船団が鈍重な陳友諒の船舶を次々を火だるまに変えていき、戦いの主導権は徐々に移りつつあった。戦いの3日目、にわかに東北の風が吹くと、朱元璋は決死隊による火船七艘を陳友諒に突っ込ませたため、折からの強風により密集した巨艦は炎上し「煙焔天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」という地獄絵図と化した。陳友諒軍は斬首された者2000余、溺死・焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北を喫することとなった。さらに陳友諒の弟で勇略を謳われた陳友仁が死亡したことで、士気は激しく低下した。陳友諒は逃亡を図るも、朱元璋が湖口の地を伏兵でふさいでいたため、数日の睨み合いとなった。兵站線を断たれたため、陳友諒軍からは寝返りが相次いだという。結局、陳友諒は湖口の突破を試みるが、矢に当たって戦死した。
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戦いの推移
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「ハステンベックの戦い」の記事における「戦いの推移」の解説
フランス軍を再びヴェーザー川の向こうへ追いやるため、カンバーランド公は1757年7月26日に地勢をよく知らなかったもののハステンベックで戦いに臨む。彼はその軍をアフェルデ(ドイツ語版)からハステンベック(ドイツ語版)を経由し、オーベンスベルク(ドイツ語版)までシェッケン高地(ドイツ語版)の西側で6キロメートルにわたって展開した。指揮下の部隊を起伏に富んだ土地に巧みに配置することで、兵力と砲の著しい数的劣勢を補おうとしたのである。住民が退去したハステンベックの村は戦場の中央、連合軍の前方およそ300メートルにあり、それによって壊滅に瀕していた。 1757年7月26日の朝は、双方の部隊による砲戦とともに訪れた。フランス軍のシェヴェール(英語版)中将は連合軍に気づかれることなく、前夜に兵を率いてフォーレムベルク(ドイツ語版)からシェッケン高地に接近していた。戦いが始まると、彼はそこから大砲18門をもって連合軍の猟兵3個中隊が守っていたオーベンスベルクの高地に迫り、その陣地を奪う。連合軍の後方に構えつつ、フランス軍はその上から砲撃を加えた。程なくブライデンバッハ大佐とダッヘンハウゼン大佐の部隊をもって連合軍はオーベンスベルクを奪還し、残されていた大砲でフランス軍の陣地を砲撃する。 昼頃、エストレ公爵元帥は戦場からオーベンスベルクの奪還を見て取ると指揮下の部隊に戦闘の中断を命じた。その少し後、カンバーランド公も各部隊に退却を命じる。これらの命令は戦闘が頂点に達した時、双方が迅速な撤退をもって自軍を全滅から救うため発せられたものであった。エストレ公は冷静にも、カンバーランド公も退却を開始したことに気づいた後、撤退の中止を命じる。そして念のため、追撃を加えなかった。これによって、監視軍は戦いに敗れた。フランス軍では2,300名が戦死し、連合軍の損害は1,400名に上る。
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戦いの推移
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6月29日に、ディートルの山岳軍団は、1940年国境を越え、東に進撃を始めた。左側(海側)を第2山岳兵師団(136連隊、137連隊)がペツァモの東から、Titovka集落を経てリスタ村へ。右側(陸側)を第3山岳兵師団(138連隊、139連隊)がルオスタリから、Chapr湖→Motovka集落と進出して、リスタ村を南側から攻略。さらにその90km南から、イヴァロ大隊が、山岳軍団の側面を支援するために牽制攻撃を行う、というのが最初の計画であった。初日は、山岳兵部隊は、ソ連軍の国境陣地を突破して進撃を続けた。計画では、リョーバチ半島のソ連軍を封じ込める為に、1個大隊を派遣して栓をする予定であったが、ソ連軍の圧力が強いので、136連隊はリョーバチ半島に2個大隊を派遣する羽目になった。 6月30日に、第2山岳兵師団の136連隊は、国境から約10kmのTitovka集落を占領した。しかしOKWの作戦地図に示されていたTitovkaからリスタ村への道は、存在しないことがわかった。また、第3山岳兵師団も、29日にChapr湖からMotovka集落への道は存在しないことを発見した。それらの原因は、OKWの作戦地図は、ソ連の地図をもとにしていたが、ソ連製地図の電話線とラップ人が使う小径を、OKWの地図作成者は道路と誤認していたことであった。 激しい戦闘の末、7月3日には、137連隊はリスタ村を占領し、7月4日には、136連隊の2個大隊は、リョーバチ半島の根元に防衛線を設けて、ソ連軍を封じ込めたが、ソ連軍は砲兵に支援された1個連隊相当で、強圧をかけつづけた。 7月6日に、両師団によるリスタ川を渡っての攻撃が行われたが、激しいソ連軍の抵抗にあった。なんとか、第3山岳兵師団の戦線では、2個大隊が川をこえて幅1.5kmの橋頭堡を築いた。しかし、同じ日に、ソ連軍は、北方艦隊の支援の元、リスタ湾口の東と西に、それぞれ1個大隊を上陸させた。この新たな脅威に備えるために、第2山岳兵師団は、1個大隊を配置し直した。リスタ川の主戦線では、ソ連軍の反撃は跳ね返したものの、7月8日に攻撃は中止された。 第5航空艦隊の60機の作戦機による支援は、約350km南方の北極狐作戦区域も含めてのもので、ソ連空軍の活動やソ連軍の沿岸上陸作戦を妨げることはできななかった。 7月13日には、2回目のリスタ川の防衛線をうちやぶるべく総攻撃が行われた。しかし、別のソ連軍部隊がリスタ湾の北に上陸したという報告があり、この側面の脅威を除去しない限り、リスタ川の東へ進むのは危険で、7月18日に攻勢作戦は中止された。 ディートルの増援要求にこたえて、ファルケンホルスト指揮下の在ノルウェー部隊からの2個連隊が、増援されることになった。さらに、マンネルハイムは、フィンランド第14歩兵連隊の派遣を約束し、この部隊はリョーバチ半島の戦線を肩代わりすることになった。しかし、これらの部隊の到着は8月になる見込みだった。7月30日に、ヒトラーとOKWは、第6山岳兵師団の増援を決めたが、この部隊はギリシアにいたので、最善のケースでも作戦行動が可能な9月中にペツァモ地区に到着する見込みは、薄かった。 8月2日から、ディートルの山岳兵の4個大隊は、リスタ湾のソ連軍を掃討する作戦を行い8月5日には、リスタ湾口のソ連軍橋頭堡を除去した。 OKW,ノルウェー駐留軍、山岳軍団の間で、今後をどうするか協議されたが、第6山岳兵師団の到着は当てにせず、2個連隊の増援を受けた後に冬が来る前に、リスタ川のソ連軍防衛線を突破して、ムルマンスクか最低でも、コラ湾口のPolyarnyyを攻略することになった。ディートルもブッシェンハーゲンも、この作戦には非常に懐疑的であったが、ファルケンホルストは作戦の実施を命じた。山岳軍団は、8月を攻勢準備にあて、9月に総攻撃を行うことになった。 リスタ川戦線での最後の攻勢は、9月8日に開始された。ドイツ軍の計画は、第2山岳兵師団の137連隊とSS第9歩兵連隊は、北側橋頭堡よりリスタ川ソ連軍陣地の右翼を迂回して、173.7丘まで東進しそれから南へ進んでニュー道路に出る。第3山岳兵師団の戦線では、第388歩兵連隊が正面攻撃をおこなってソ連軍を牽制し、138連隊と139連隊はソ連軍リスタ川陣地左翼を迂回し、Kuirk湖を経て、ソ連軍リスタ川陣地とコラ湾をつなぐロシアン道路へ向かう。ロシアン道路とニュー道路の分岐点からニュー道路に沿って北上し、ニュー道路を南下してくる第2山岳兵師団と手をつなぐ、という計画である。 作戦第一日(9月8日)は、第2山岳兵師団は、比較的スムーズに前進し、173.7丘に到達した。第3山岳兵師団も、右翼部隊は、比較的スムーズに進撃でき、Kuirk湖の狭水路から2キロの地点まで進出した。しかし、第388連隊の戦線では、部隊は正面攻撃をおこない2個大隊は、川を渡って目標の丘の手前まで進んだが、ドイツ軍の事前砲撃がやむと、先頭の部隊は四囲からソ連軍の銃火を浴び始めた。午後には状況は深刻になり、連隊長は部隊の壊滅を避けるために川の西岸への退却を求め、師団長は退却を許可したが、それまでに連隊は大損害をだしてしまった。二日目(9月9日)には、第2山岳兵師団の戦線で、SS第9歩兵連隊の2個大隊は、ソ連軍陣地の存在にきづかず、やりすごしてから、四方から銃火と迫撃砲、重砲による砲撃をうけ、ソ連軍の反攻にあって、部隊は潰走し、山岳兵部隊が介入してなんとか戦線は維持された。第2山岳兵師団は、それでもなんとか5キロ進んだが、そこで、ソ連軍の激しい反攻にあい釘付けとなった。一方、第3山岳兵師団の先頭部隊はロシア道路とニュー道路の分岐点の250メートル足らずまで進んだが、そこで、おおよそソ連軍1個連隊が保持している陣地にぶつかった。どちらの師団の進撃もソ連軍の激しい反攻にあって、止まってしまった。第3山岳兵師団長は、攻撃の再開には、補給物資の集積に最低一日は必要と報告した。作戦第五日(9月12日)に、第2山岳兵師団は攻撃を再開して、なんとか1.6km南進したが、進撃した分は、その夜のソ連軍の反攻で帳消しになった。第3山岳兵師団は、9月14日に攻撃を再開したが、最初からソ連軍の反攻とぶつかってしまい頓挫した。どちらの師団の攻勢部隊も、ラバによる荷駄輸送に頼っており、なんとか食料は運べれていたが、攻勢作戦用の弾薬集積には、不十分だった。その後、冷雨が続き、どちらの部隊も攻撃を行わず、現在地で守備体制をとりつつ弾薬補給を待つことになった。 ノルウェー駐留軍司令部は、9月13日に、11日と12日にノルウェー沿岸航路で貨物船がイギリス海軍により撃沈されたので、海軍がノールカップ以東への船舶輸送を停止していることを知った。ファルケンホルストは、9月15日に、総統大本営でヒトラーと会談した際に、第6山岳兵師団をXXXVI軍団の戦線に転用する事を提案したが、ヒトラーは、来年春のムルマンスク攻略を諦めておらず、提案を拒否した。 9月18日には、ディートルとブッシェンハーゲン少将(軍参謀長)は、この攻勢作戦を停止する事に決めた。第3山岳兵師団は、17日に攻勢を再開したが、18日にはPolyarnyy師団2個連隊の反撃を受けて、これ以上の損害を避ける為に、師団長は、リスタ川西岸への退却を求め、ディートルは渋々、これを許可した。そして、第3山岳兵師団は26日には、リスタ川西岸へ撤収した。ノルウェー駐留軍は、21日に、正式に作戦の中止を決定した。しかし、ヒトラーは、翌年の春に、第6山岳兵師団が参加してのムルマンスク攻略を諦めておらず、山岳軍団は、リスタ川西岸に越冬用の防衛陣地を構築するよう命じられた。
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戦いの推移
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「グロースベーレンの戦い」の記事における「戦いの推移」の解説
16時頃、滝のような雨の中、フランス軍がグロースベーレン付近に現れた。これはジャン・レニエ(英語版)師団将軍率いる第7軍団に属していた。同軍はプロイセン軍にグロースベーレンが占領されているのを目の当たりにして砲撃を開始し、およそ1時間でプロイセン軍を村から追い払う。プロイセン軍は北に約4キロメートル離れたハイナースドルフ(英語版)に陣を敷いた一方、フランス軍はグロースベーレンに露営した。 ビューロウ中将はフランスの全軍と対峙しているとは考えなかったため、北軍(ドイツ語版)上級指揮官であるスウェーデン王太子ヨハンの意に反して攻撃を決意する。大砲64門の砲列が火を噴いたところ、フランス軍はザクセン軍のより強力な大砲44門をもって応射した。同時にプロイセン軍は、グロースベーレンの東方に位置するクラインベーレン(ドイツ語版)からも攻撃した。 レニエ師団将軍は遂に、プロイセン軍の熱意を認識した。彼は指揮下の左翼を第2集団のザクセン軍6個大隊で補強する。対するプロイセン軍は午後6時頃、合計35,000名による銃剣突撃を発令した。砲列の背後で編成された諸大隊は梯団単位で荒廃した村へと前進し、そこでフランス軍に退却を強いる。ザクセン軍の第2師団も劣勢となり後退した。 同じ頃、昼の間にレニエの軍団の遥か後方に残されていたウディノ元帥の部隊が、近郊のアーレンスドルフ(ドイツ語版)に到着した。彼は即座に騎兵2,000名を支援のためグロースベーレンへ送り、夜襲を開始させたが、彼らはプロイセン軍に撃退された。 その夜にも、レニエ師団将軍とウディノ元帥はヴィッテンベルクへの退却を決定する。ナポレオンの軍によるベルリンへの攻撃は頓挫し、プロイセンの首都は敵軍による征服を免れた。マクデブルクから進撃して来たジラール(英語版)師団は1813年8月13日、ハーゲルベルク近郊で壊滅的な損害を被った(ドイツ語版)。
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戦いの推移
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永禄3年2月の戦い 永禄2年とする説もある。約十回に及ぶ唐沢山城の戦いで唯一、昌綱が謙信と手を組んで北条氏と戦った合戦。北条氏康の子・氏政率いる3万余の大軍が唐沢山城を攻撃する。昌綱は抗戦し、謙信に救援を要請した。これに対し謙信は寡兵で北条軍を破ったとされる。しかしこの合戦は創作の可能性が指摘されている。 永禄4年12月の戦い 永禄4年(1561年)3月、謙信は昌綱らを従えて氏康の居城・相模の小田原城を包囲した。氏康は窮地に陥るも、陥落するには至らず上杉軍は越後へ引き上げた。上杉軍が去ると氏康は反撃を開始し、北条軍は唐沢山城に迫った。謙信は信濃の川中島で、甲斐の武田信玄と死闘を繰り広げており、昌綱に援軍を送る余裕はなかった。このため孤立した昌綱は氏康に降伏し、これを反逆とみなした謙信により攻撃されるに至った。しかし唐沢山城の堅牢さと冬の到来もあり、謙信は兵を引き上げた。 永禄5年3月の戦い 謙信は上野の厩橋城で年を越した後、永禄5年(1562年)3月に唐沢山城へ攻め寄せた。しかし堅固な唐沢山城を攻め切れず、再び兵を引き上げた。昌綱は昨年に続いて二度も謙信を撃退したことで、その武勇を戦国の世に知らしめることになった。謙信はこの後、越中で神保長職が反乱を起こしたため越中出兵を余儀なくされ、関東における北条氏の勢力回復を招くことになる。 永禄6年4月の戦い 永禄6年(1563年)2月、氏康は信玄の援軍を得て、上杉方の武蔵における最重要拠点・松山城を攻撃、これを陥落せしめた。謙信は越中から急遽越後へ引き返し、雪に埋もれた三国峠を越えて関東へ戻り救援に向かっていたが、間に合わなかった。関東を留守にしている間、他の関東の多くの城も北条方に寝返っていたため、謙信はこれらを次々に攻め寄せて降伏・開城させていった。この謙信の勢いの前に、昌綱はあえなく降伏し、唐沢山城は開城した。謙信がこの年の冬から翌年の春に至る関東出兵で降伏・開城させた城は、武蔵の騎西城・忍城、下野の唐沢山城・祇園城、下総の古河城・結城城、常陸の小田城など多数に上った。 永禄7年2月の戦い 永禄7年(1564年)2月、昌綱は謙信が下野を去った後に、再び反旗を翻した。唐沢山城は、上杉軍が上野の厩橋城から関東の中心・古河城(古河御所)へ進軍する際の経路を押さえる拠点であり、昌綱の度重なる反抗は謙信にとって大きな痛手であった。この2月の戦いは、10回近い唐沢山城の戦いの中でも最大の激戦となり、上杉軍は激しく攻め立てたが、佐野軍は徹底抗戦した。唐沢山城は急峻な山頂にある上、水の手も豊富であり、謙信といえども攻め落とすのは容易ではなかった。 しかし昌綱が頼りとする北条氏は当時、安房の里見義堯と国府台で戦っており、援軍を送ることはなかった。さすがの唐沢山城も孤立無援で謙信に攻められては守り切るのは難しく、上杉軍の猛攻の前に三の丸・二の丸を奪われ本丸にも迫られた。昌綱は、常陸の佐竹義昭と下野の宇都宮広綱の説得に従い、ついに降伏。謙信は、義昭と広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。この戦いで斎藤朝信と吉江景資、色部勝長(揚北衆の一人)、が軍功を挙げ、謙信から感状を賜っている。 永禄7年10月の戦い 8月、謙信が信玄と川中島で5度目の戦いに忙殺されている間、信玄と同盟する氏康は再び北関東へ軍勢を送って、唐沢山城を脅かした。昌綱は圧力に屈して再び謙信から離反し、上杉軍の再侵攻を招いた。10月、謙信は唐沢山城に迫ったため、昌綱は降伏。昌綱から人質を取って越後へ帰国した。 永禄10年2月の戦い 前回の戦いで昌綱から人質を取ったこと及び、北条氏が安房の里見攻めに主力を差し向けていたため、昌綱はしばらく謙信から離反することはなかった。しかし謙信は、西上野・北信濃で武田氏・関東各地で北条氏・越中で一向一揆と、三方面での戦いを強いられており、永禄9年(1566年)に下総の臼井城攻めおよび上野の和田城攻めに失敗したことで、多くの関東諸大名が北条・武田方へ離反してしまった。北条氏の勢力が再び下野に迫るに及んで、昌綱は再び北条氏へ離反した。永禄10年(1567年)2月、謙信は唐沢山城へ攻め寄せたが、関東諸大名の援軍もなく苦戦。冬の寒さと雪もあり、雪解けを待つことにして撤退した。 永禄10年3月の戦い 雪解けとともに唐沢山城へ殺到した上杉軍の前に、佐野軍は降伏を余儀なくされた。度重なる離反にも関わらず、謙信は再び昌綱を助命している。唐沢山城を取り戻したものの、この年には上杉方の関東における最重要拠点・厩橋城の城代・北条高広が北条方に寝返る事件もあり、謙信の関東管領としての威信が失墜し兼ねない事態となった。しかしその後、共同して謙信と戦っていた信玄と氏康の同盟関係に亀裂が生じ、両者は駿河今川氏を巡って激しく敵対する事態となった。氏康は謙信との和睦を要請し、謙信がこれを受け入れ越相同盟が成立したため、関東における上杉・北条の争いは一旦収束を見た。 元亀元年1月の戦い 元亀元年(1570年)1月、再び背いた昌綱を従わせるため、謙信は唐沢山城に迫った。しかし真冬の時期の攻城はさすがに不可能であったため、謙信は兵を引いた。
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