が‐しゅう〔‐シフ〕【我執】
我執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/15 15:58 UTC 版)
現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています。 削除についての議論は、削除依頼の依頼サブページで行われています。削除の議論中はこのお知らせを除去しないでください。 この項目の執筆者の方々へ: まだ削除が行われていない場合は、議論に参加し、削除の方針に該当するかどうか検討してください。また、本項目を既に編集されていた方は、自身の編集した記述内容を念のために控えておいてください。 |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2017年8月) |
我執(がしゅう、आत्मग्राह、ātma-grāha、アートマ・グラーハ)は自分に対する執着で、仏教ではその克服が重要な課題とされる。すべての存在に実体(法我)があると考える「法執」(dharma-grāha ダルマ・グラーハ)と合わせて二執を構成する。
意識ある生きものを有情(うじょう)といい衆生(しゅじょう)というが、その主体として、恒常・不変の自我(人我 ātman)が実在すると考えて執着することを言う[1]。それぞれ二執を「人我見(我見)」・「法我見」ともいう。後述の「人無我」「法無我」に対している。
我執には、人に生れつきそなわっている「倶生」(くしょう)と、後天的に教えこまれたり、考え出したりする「分別」によるものとの2種がある。唯識では、8種の認識作用(8識)を想定しており、倶生は第7の末那識(まなしき、manas)に、分別は第6の意識(mano-vijñāna)に属するとしている。
脚注
注釈
出典
- ^ 「我執」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、Britannica Japan。
関連項目
我執と同じ種類の言葉
- >> 「我執」を含む用語の索引
- 我執のページへのリンク