成漢攻略
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成漢の君主の李勢は荒淫で無道な人物であり、その国力は日を追うごとに衰えていた。永和2年(346年)10月頃、桓温は西伐を敢行して成漢を滅ぼし、勲功を打ち立てようと考えたが、諸将はみな失敗すると考えてこれに反対したが、ただ一人江夏相袁喬だけは桓温の意見に賛同した。これにより、桓温は周囲の反対を押し切って西伐を決断した。 11月、桓温は成漢征伐の作戦を決行した。朝廷の百官らは蜀の地は険阻で遠方にあり、また桓温の兵が少ない事を憂慮し、書を送って深入りしないよう桓温を諫めたが、桓温はこれを無視した。成漢領内に進軍すると、諸将は軍を分けて二道より進み、成漢軍の勢いを分散させるべきだと主張したが、袁喬は「軍を分けてしまえば兵心も一つとはならず、万一片方でも敗れれば大事は去ってしまいます。ここは釜・鍋は棄てて3日分の食料のみを携帯し、逃げ帰るという選択肢が無い事を全軍に示すべきです。そして全軍を挙げ一丸となって進軍し、一戦で決着を付ければ勝利は間違いありません」と進言した。桓温はこの意見に同意し、3日分の食糧のみを携え、歩兵を率いてまっすぐ首都の成都へと進撃した。 桓温は成漢の李福・李権らの軍を撃破し、成都城外まで十里の所まで進撃した。李勢は全軍を動員して桓温軍を迎え撃ち、笮橋において決戦を挑んだ。戦況は壮絶なものとなり、東晋軍の前鋒は劣勢となって参軍龔護が戦死した。成漢軍の攻勢は桓温の馬前まで矢が届くほどとなり、諸将は大いに恐れて撤退しようと考えたが、鼓吏(軍の太鼓係)は誤って前進の合図を叩いてしまった。だが、袁喬は逆にこれを利用し、剣を抜いて軍士を大いに鼓舞すると、奮戦して敵軍を撃破した。これにより李勢軍は大きく潰走したので、桓温は勝ちに乗じて進撃し、ついに成都を攻め落とすと、その城門を焼き払った。成漢軍は恐れおののき、みな戦意を喪失した。李勢は夜闇に紛れて東門から逃亡し、90里退いて晋寿郡の葭萌城に入った。やがて将軍鄧嵩と昝堅の勧めにより降伏を決断し、散騎常侍王幼を派遣して桓温へ降伏の文書を送り、自ら「略陽の李勢は、ここに叩頭して死罪を受け入れます」と称した。また、棺を担ぎ、面縛して桓温の陣営へ出頭した。桓温は戒めを解き、李勢とその宗室10人余りを建康へ送還した。 成漢の司空譙献之(譙縦の祖父)・尚書僕射王誓・中書監王瑜・鎮東将軍鄧定・散騎常侍常璩らは良臣であった事から、桓温は彼らの罪を免じて参佐に取り立てた。他にも当地の賢人を登用してその善行を表彰したので、蜀の民はみな喜んだという。しかし後に王誓・鄧定らは反乱を起こしため、桓温は自ら出撃して鄧定を撃ち、また益州刺史周撫に命じて王誓らを討伐させた。乱が鎮圧されると、桓温は軍隊を整備して再編成した後、江陵へ帰還した。成都に留まる事30日であった。 永和4年(348年)8月、朝廷により蜀平定の功績が論じられると、桓温は豫章郡公の地位を望んだ。だが、その権勢を危惧した尚書左丞荀蕤は「(今ここで豫章郡公の地位を与えてしまえば)温(桓温)がもし今後、河・洛の地を平定した暁には、どうやってそれを賞するというのですか」と反対したので、認められなかった。最終的に桓温は征西大将軍に任じられ、開府儀同三司の特権を与えられ、さらに臨賀郡公に封じられた。
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