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成漢攻略とは? わかりやすく解説

成漢攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)

桓温」の記事における「成漢攻略」の解説

成漢の君主李勢荒淫無道人物であり、その国力日を追うごとに衰えていた。永和2年346年10月頃、桓温は西伐を敢行して成漢滅ぼし勲功打ち立てようと考えたが、諸将はみな失敗する考えてこれに反対したが、ただ一人江夏袁喬だけは桓温意見賛同した。これにより、桓温周囲反対押し切って西伐を決断した11月桓温成漢征伐作戦決行した朝廷百官らは蜀の地は険阻遠方にあり、また桓温の兵が少ない事を憂慮し、書を送って深入りしないよう桓温諫めたが、桓温はこれを無視した成漢領内進軍すると、諸将は軍を分けて二道より進み成漢軍の勢い分散させるべきだと主張したが、袁喬は「軍を分けてしまえば兵心も一つはならず万一片方でも敗れれば大事は去ってしまいます。ここは釜・鍋は棄てて3日分の食料のみを携帯し逃げ帰るという選択肢が無い事を全軍に示すべきです。そして全軍挙げ一丸となって進軍し一戦決着付ければ勝利間違いありません」と進言した。桓温はこの意見同意し3日分の食糧のみを携え歩兵率いてまっすぐ首都成都へと進撃した桓温成漢李福らの軍を撃破し成都城外まで十里の所まで進撃した李勢全軍動員して桓温軍を迎え撃ち、笮において決戦挑んだ戦況壮絶なものとなり、東晋軍の前鋒劣勢となって参軍龔護が戦死した成漢軍の攻勢桓温馬前まで矢が届くほどとなり、諸将大い恐れて撤退しようと考えたが、鼓吏(軍の太鼓係)は誤って前進合図叩いてしまった。だが、袁喬逆にこれを利用し、剣を抜いて軍士を大い鼓舞すると、奮戦して敵軍撃破した。これにより李勢軍は大きく潰走したので、桓温勝ちに乗じて進撃し、ついに成都攻め落とすと、その城門焼き払った成漢軍は恐れおののき、みな戦意喪失した李勢夜闇紛れて東門から逃亡し90退いて晋寿郡葭萌城に入った。やがて将軍鄧嵩と昝堅の勧めにより降伏決断し散騎常侍王幼を派遣して桓温降伏文書送り、自ら「略陽李勢は、ここに叩頭し死罪受け入れます」と称したまた、担ぎ面縛して桓温陣営出頭した桓温戒め解き李勢とその宗室10余り建康送還した。 成漢司空譙献之(譙縦祖父)・尚書僕射王誓・中書監王瑜鎮東将軍定・散騎常侍常璩らは良臣であった事から、桓温は彼らの罪を免じて参佐に取り立てた。他にも当地賢人登用してその善行表彰したので、蜀の民はみな喜んだという。しかし後に王誓・鄧定らは反乱起こしため、桓温は自ら出撃して鄧定を撃ち、また益州刺史周撫に命じて王誓らを討伐させた。乱が鎮圧されると、桓温軍隊整備して再編成した後、江陵帰還した成都留まる30日であった永和4年348年8月朝廷により蜀平定功績論じられると、桓温豫章郡公の地位望んだ。だが、その権勢危惧した尚書左丞荀蕤は「(今ここで豫章郡公の地位与えてしまえば)温(桓温)がもし今後河・洛の地を平定し暁にはどうやってそれを賞するというのですか」と反対したので、認められなかった。最終的に桓温征西大将軍任じられ開府儀同三司特権与えられ、さらに臨賀郡公に封じられた。

※この「成漢攻略」の解説は、「桓温」の解説の一部です。
「成漢攻略」を含む「桓温」の記事については、「桓温」の概要を参照ください。

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