懸緒について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 15:34 UTC 版)
懸緒は鎌倉時代には蹴鞠の時に限って使用した。懸緒には馬の毛の紐や楽器の絃などが用いられたが、中でも紫の組紐である「紫組懸緒」が重視された。紫組懸緒は飛鳥井雅有の『内外三時抄』には飛鳥井家の家説と主張されており、二条家の『遊庭秘抄』によると二条家の家説と主張されている。『実隆公記』によれば室町後期には蹴鞠でないにもかかわらず、参内に組懸緒を用いる例が見られ、このころより簪は単なる飾りの管となって、通常も組懸を用いることが一般化した。 こうして懸緒は、室町中期には、和紙製の紙縒(こびねり)が正式で、束帯には必ずこれを用い、組懸(くみかけ。組懸緒の略称)は鞠の家の許可を得たもののみ略式に使われるようになった。永正三年、後柏原天皇が三条西実隆に組懸緒を下賜しようとして飛鳥井雅俊の抗議を受けた。天皇は飛鳥井家が許可を「自専」する根拠の提出を雅俊に求めた。この件に関しては将軍の関与も無く、天皇に対立する形になった雅俊はやむなく「天皇による下賜は認めるが、事前に飛鳥井家に諮問してほしい」という条件で妥協した。さらに時代が下ると飛鳥井家による組懸緒許可に際しても勅許を要するようになり、近世には、公家の場合天皇より下賜されることで勅許を得る(天皇より飛鳥井家に諮問があるが、下賜された者の同家への謝礼は不要)者と、飛鳥井もしくは難波家の門弟になってから両家の執奏により勅許を得る者の二通りがあった。一方、武家では四位侍従以上の上流武家のみがこれを使用したが、もっぱら飛鳥井家の執奏によってのみ組懸緒の勅許を得たため、徳川御三家・御三卿および大大名は形式的に飛鳥井家の鞠の弟子となるのが慣例となり、執奏時の礼金のみならず、入門料以下の謝礼が同家に富をもたらした。 神社本庁系の神職の懸緒は白色の紙捻を使用する事になっているが、出雲大社の国造と管長は紫色を用いる。
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