応誉と柳川藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 09:56 UTC 版)
鎮漣の弟の蒲池統安は耳川の戦いで討ち死にしており、嫡子で塩塚城主だった蒲池鎮貞は龍造寺氏との柳川の戦いで討ち死にしたが、次男の応誉は僧籍にあり、瀬高上庄の来迎寺の第四世住職を勤めていたが、柳川藩主となった立花宗茂に招かれ、宗茂の正室の誾千代の菩提寺である良清寺を開き、その初代住職となる。応誉の子孫は蒲池氏を再興し、江戸時代は柳川藩主の立花氏の家老格となる(家老ではなくて家老格であるのは、蒲池氏が元は柳川の領主であり、立花氏の譜代の家臣筋ではなかったからである)。歌手の松田聖子(蒲池法子)はこの子孫である。
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