後期水戸学とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

後期水戸学とは? わかりやすく解説

後期水戸学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:07 UTC 版)

水戸学」の記事における「後期水戸学」の解説

大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保治世彰考館総裁立原翠軒中心として再開されるこの頃、藩内農村荒廃蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患危機感強まっていた一方水戸藩深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業留まることなく農政改革対ロシア外交など、具体的な内外諸問題改革目指した。翠軒の弟子には小宮山楓軒青山延于らがいる。翠軒の弟子藤田幽谷は、寛政3年1791年)に後期水戸学の草分けとされる正名論」を著して後、9年藩主治保に上呈した意見書藩政批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂方針巡り、翠軒と幽谷対立深める。翠軒は幽谷破門にするが、享和3年1803年)、幽谷逆に翠軒一派致仕させ、文化4年1807年総裁就任した幽谷門下会沢正志斎藤田東湖豊田天功らが、その後水戸学派中心となる文政7年1824年水戸藩内の大津村にて、イギリス捕鯨船12人が食料求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応捕鯨船員の要求そのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰捉え水戸藩攘夷思想が広まることとなった事件翌年会沢正志斎尊王攘夷思想理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士多大な影響与えた天保8年1837年)、第9代藩主徳川斉昭は、藩校としての弘道館設立総裁会沢正志斎教授頭取とした。この弘道館教育理念示したのが「弘道館記」であり、署名徳川斉昭になっているが、実際起草者は幽谷の子藤田東湖であり、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。 徳川斉昭改革は、弘化元年1844年)、斉昭が突如幕府から改革行き過ぎ咎められ藩主辞任謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派家臣たちも同様に謹慎言い渡された。 この謹慎中に藤田東湖執筆したのが「弘道館記」の解説書である「弘道館記述義」である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この中で東湖本居宣長国学大幅に採用し儒学立場から会沢らの批判招きつつも、尊王絶対とともに広範な民衆動員を図る思想[要出典]は弘道館教育方針留まらず藩政大きな影響与えた同時期に東湖著した回天詩史」「和文天祥正気歌正気歌)」は、佐幕倒幕志士ともに愛読された。 嘉永6年1853年)のペリー来航水戸藩改革派復権もたらし、斉昭は幕政参与就任東湖らも斉昭側近登用され農兵編成など軍事改革進められる。しかし、安政の大地震東湖死亡し安政の大獄で斉昭が再度処罰される至って水戸藩政治的・思想的な混迷深めていくことになる。 水戸藩その後安政5年1858年)の戊午の密勅返納問題安政6年1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄元治元年1864年)の天狗党挙兵、これに対す諸生党弾圧明治維新後の天狗党報復など、激し内部抗争疲弊した

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後期水戸学

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国体」の記事における「後期水戸学」の解説

幕末対外危機きっかけに、水戸学日本独自国柄という意味で国体観念強く打ち出した水戸学会沢正志斎著書新論』が国体観念浮上させる画期となった。『新論』の構想は、危機克服指針求めていた志士たちの心を捉え水戸藩超えて日本全国流布した。このことは国体論を一つ思想として独立させた。 内務省神社局 (1921) によれば国体論の発達は後期水戸学において絶頂達したいわゆる復古国学は、国体尊崇が盛んであったが、儒学排斥熱心になりすぎて、第三者からみて固陋独断陥ったところがあった。水戸学にはそういうところがない。その特色は、常に視点高所置いて偏せず捕らわれず徹頭徹尾批判的な見地に立ち、内に愛国尊王精神を抱くというものであるという。 水戸学主要人物は、水戸藩主徳川斉昭中心として、藤田幽谷会沢正志斎藤田東湖などである。 徳川斉昭天資英邁といわれ、国体に関して自己の見識持っていた。その見識は、みずから創設した弘道館趣旨由来記した弘道館記」「弘道館学則」「告志篇」や、天皇地球儀献上した時の上表文に見ることができる。 「弘道館記」に曰く上古神聖皇位立て皇統垂れ、これによって天地位置し万物育成する。それが全宇宙に照臨宇宙内を統御する所以は、今まで斯道に依ってきた。「宝祚(皇位)これをもって無窮に国体これをもって尊厳に、蒼生(人民)これをもって安寧に、蛮夷戎狄(諸外国)これをもって率服(服従)す」。しかしそれでも歴代天皇満足せず外国参照して善を為すことを楽しんだ。すなわち、西土堯・舜・夏・殷・周の治教などを取り入れて皇道役立てた。これによって「斯道」はいよいよ明大になって完成した。しかし中世以降異端邪説が民を欺き世を迷わし俗儒曲学自国捨て外国従い皇化衰え禍乱続き大道世に明らかにならなくなって久しい、と。 「告志篇」では次のように述べたそもそも日本神聖の国であって天祖天照大神天孫歴代天皇)が皇統垂れ皇位建ててから、その明徳は遠い太陽とともに照臨し、皇位隆盛天壌とともに窮まり無い。君臣父子常道から衣食住日用に至るまで全て天祖恩賚である。万民永く飢え寒さ免れ天下皇位を狙う非望萌し見られなかったのは有り難いことである。しかし数千年の久しさ盛衰あり治乱あり、戦国後期至って天下の乱は極まった東照宮徳川家康)が三河起って風雨に身を晒し艱難辛苦し、天朝助け諸侯鎮めた二百余年の今に至るまで天下泰平であり、人民塗炭の苦しみ免れ生まれながら太平恩沢浴びていることは、これまた有り難いことである。「されば人たるものは、かりそめにも神国尊きゆえんと天祖恩賚とを忘るべからず」。天朝天祖日嗣であり、将軍東照宮神孫であり、不肖ながら我(徳川斉昭)は藩祖血脈伝え、おのおのは自分先祖家系継承する。この点をよくわきまえ天祖東照宮の恩に報いんとするならば先君先祖の恩に報いんと心掛けるほかにない、と述べた。 「弘道館記」も「告志篇」も皇統神聖であって万世無窮であり、国体尊厳であって君臣名分が明らかであることを示し、これを体現するには先祖尊崇根本義としなければならない述べた。 「弘道館学則第1条曰く弘道館出入りする者は弘道館記を熟読しその深意を知るべし、「神道」と「聖学」は一致し忠孝の本はひとつであり、文武はわかれず、学問事業効果異ならない、と。また同第2条曰く、「神道」「聖学の意味弘道館記にあるとおりである。すなわち、宝祚無窮君臣父子大倫天地とともにかわらないのは天下大道いわゆる惟神」である。そして「唐虞三代の治教」は天孫採用したものであって、これもまた人倫明にするものである両者一致する。学ぶ者は宜しく「神を敬ひ儒を崇び」、もって「忠孝の大訓を遵奉すべし」と。 嘉永6年(1853)に徳川斉昭天皇地球儀献上したその時の上表文に、日本建国国是生々発展にあること、神孫永遠不変に統治する尊い国体であることを述べている。上表文次のようにある。 高天原事始め、遠い皇祖世々に、天津日嗣事業として、八坂瓊曲玉のように巧妙に天下知らし白銅鏡のように分明山川海原を観て、遠い国千尋栲縄をもって引き寄せ荒ぶる国を帯剣平定した跡のように、今「現御神と天下知ろしめす我が天皇大御代に当たりて」、仁恵広くあまねく、天益人(天意により増える人民)は手を挙げて楽しみ合った思うにスサノオ尊は天壁の立つ極地廻り、オオムナジ・スクナヒコナの二神兄弟となって天下国々経営した。「しかるときは万国固より我が神州枝国とぞ云うべかりける」(つまり諸外国神国日本から枝分かれした国である)。そうならば万国有りさま知らなてはならない。(よって地球儀献上する)。以上。 藤田幽谷徳川斉昭仕えて31人目彰考館総裁修史責任者)となり、大義名分高唱した。寛政3年(1791)18歳時に正名論』を著し皇室政事の外に超越して万古不易の尊位を保つ所以論じ名分正し名分厳密にすることが国体本領であると説いた具体的に次のようにいう。曰く天皇国事関与せず、単に国王待遇を受けるだけであるというのはその実質を指している。しかし天に二日なく地に二王なし。よって幕府は王を称するべきではない。幕府実質的に天下の政を摂している(代行している)から、名分上も摂政称すべし、と。こうした藤田幽谷の『正名論』は幕府弁護するものであって当時時勢分かる会沢正志斎藤田幽谷門弟であり33人目彰考館総裁となった識見高邁であり、公平な見地国学批判し儒学考察し両者の間に一家国体説を樹立し水戸学国体尊厳説を大成し近世国体論の極地達したといわれる数々著書があり、そのすべてが国体論じ名分説くのであるそのうち国体論として最も有名なものが『新論』である。 文政8年(1825)会沢正志斎は『新論』を書きあげ水戸藩主献上した現状厳しく批判したため公刊許されなかったが、秘かに筆写された。『新論』は冒頭に「国体」と題する上中3章設けた儒学でなく国学でもなく一個として独立した見地に立つ。後に栗田寛がこれを天朝正学と命名した会沢正志斎は『新論』で皇国尊貴皇恩宏大、これを奉体する国民思想人為でなく自然に生じることを説いた次のように述べる。 神州太陽出づる所、元気の始まる所、天日の嗣が代々皇位について永久に変わらないもとより大地元首であって万国綱紀である。まことによろしく天下照らし皇化遠近に及ぼす。 第一に国体」について謂う。これは神聖忠孝をもって国を建て、そして武をとうとび民の命を重ずるに及ぶ。 帝王四海保ち長久治め天下揺るがさないために頼みとすべきところは、万民威圧して一世把持することではない。億兆人民)心を一にして皆その上に親しんで離れる忍びない思うところにこそ誠に頼むべきである。 俗儒は、名分暗く、明や清を華夏中国称して国体」を汚辱する。あるいは時勢追って名義乱し天皇を寓公(亡命者)のように見なし、上は歴代天皇徳化を傷つけ、下は幕府義理害する。 昔、天祖始めて国を建て天下皇孫伝えるに及び手づから神器授けて天位千万世に伝える。天胤の尊厳犯すべからず君臣の分が定まる忠孝立って天人大道明らかに顕われる。忠をもって貴を貴とし、孝をもって親を親とする。億兆は心を一にして、上下互いに親しむ。これこそが帝王天下を保つために頼みとすべきところである。そして祖宗が国を建て基を建てる所以の大体である。 会沢正志斎『迪彜篇』に収める国体論は『新論』に次いで広く読まれた。日本尊い理由第一は、万国のなかで日本だけが易姓革命がなく皇統連綿として神世から今に至るからであると論じた万国は、それぞれ自国君主仰いで天とする。どの国も自国を貴び外国賤しいとすることは同じわけだから、自国尊び他国夷蛮戎狄と呼ぶことはよくある習わしである。しかし万国はどこでも易姓革命というものがある。国が乱れるときは君主殺害し、あるときは追放し、あるときは禅譲させ、あるいは世嗣絶えるときは他姓の者に継がせる。その天とするところがたびたび変わるのだから、その天地というのも小天地であり、その君主というのも小朝廷である。 万国の中でただ神州日本)のみは天地開闢してから天日嗣が無窮に伝えて一姓綿々としている。庶民が天と仰ぐ皇統変わらない。その天とするところが偉大であることは宇内比類がない。今この万民は、天地の間で無双尊い国に生まれながら、わが「国体」を知らないいいわけがない。 国の体というのは人の身に五体あるようなものであり、国の体を知らないのは自分の身に五体があるのを知らないのも同然である。 三種の神器のようなめでたい例は異域聞かないことなので、神州尊いことは宇内無双であり、日嗣の君こそ宇内至尊称すべきである。以上。 会沢正志斎著書下学邇道』の中で日本の地理上の位置皇位安泰などの点から神国日本の優秀を説いて以下のように述べる。 一君二民は天地の道である。世界広く万国は多いけれど至尊二つであってならない東方神明の舎、太陽生ずる所、元気の発する所、季節でいえば春であり、万物の始まる所である。そして神州日本)は大地の首にある。万国の首として四方君臨すべきである。ゆえに皇統綿々として君臣の分は一定不変である。このことは万国にない。なぜなら天下至尊二つとないからである。一君二民の義に誰も疑問抱かない神州日本)は万国元首である。皇統二つとない万民は一君を奉ずる漢土神州に次ぐが、その君臣一定不変でありえず、上古から易姓革命があって、一君はただ万民を養うことができれば成功とされるその他の夷蛮戎狄はどれも国を始めから作り変える天地大道は一君二民の義である。万国元首二つとなく、万民一君を奉じる国は二つとなく、天の後胤絶対に変えてはならず他国易姓革命がある。これは天下の道であり、勢いそうならざるをえない。以上。 会沢正志斎閑聖漫録』に尊王論がある。これによれば世人何かと尊王を口にするが王を尊ぶべき理由については漠然として真実知らない。これは耳学問弊害であるからその実事を論じてみせようといって、以下の類い尊王の義とした。 東照宮徳川家康)は政教天下に施すにあたって諸侯率いて京都朝廷参じ君臣の義正した皇室戦国のころ窮乏していたが、東照宮禁裏拡張修理して皇室領を増やし、秘籍や宝器散逸したものを元に戻した威公水戸家初代徳川頼房)は神道崇敬した。 義公水戸家二代徳川光圀)は神儒を学んだ元旦京都遙拝し、親王公卿の礼を正した大社から祠まで修理をくわえ由緒をただし正礼をおこなわせ、淫祠こわして迷信をとりのぞいた国史修めて皇統正閏し、蛮夷内外名分厳格にした。礼儀類典編纂して朝廷献上した。 以上の類い全て尊王の義である。 会沢正志斎『退食閑話』は弘道館記を和文解説したのである皇統神聖論じ国体尊厳説き人倫大道元初より具わっていたことを明らかにしたという。弘道館記に「宝祚以之無窮国体以之尊厳蒼生以之安寧」とあることについて次のように解説した天照大神三種の神器授けてから君臣の義正しく、宝鏡を見るときは我(天照大神)を視るようにせよと命じてから父子の親しみは厚く忠孝教えはともに完全である。これによって人心一定して他に移らず、天皇の位は千万年も変わらない今日仰ぐところの至尊は即ち天照大神同体であるので人情風気おのずと厚く皇位野望を抱く者もない。これが宝祚無窮である理由である。 国体尊厳というのは、海外多くの国があるけれど天地の間に尊いものは一つしかない道理であるのに、外国において帝王称する者はたびたび交替する天朝日本)の皇統綿々として天壌無窮であることは外国の及ぶところではない。このようなめでたい例についてその基本考えると、天地始めから、皇祖詔勅にある君臣父子大倫正しく人情風気も厚い。このように万国勝れているので、おのずから国体尊厳になるのである蒼生安寧というのは、古言惟神かむながらと言うように、古く神聖教えのままであり君臣父子大倫乱れなかったので、外国のような大乱がなかった。しかし、公家遊楽にふけて神聖教え衰え君臣父子の道も正しくなくなり保元平治の乱がおきて朝廷権威衰えてから、戦乱続いた。やがて東照宮徳川家康)が禍乱平らげたおかげで民は戦禍免れて父母妻子養って安穏人生を送ることができるようになった神聖教え正しく君臣父子大倫衰えず天下の乱も平和に戻った。これによって蒼生人民)も安寧になったのである会沢正志斎江湖負暄』に「建国の大体、万世といえども変えるべからざる事」と題して国体が変わるべきでない所以、および三種の神器国体との関係を論じ、また「建国の大体を明らかにして天下人心一にする事」と題して祀典祭祀儀式)を修めて民の迷信絶ち歴代天皇祀典興し諸国の名祀を再興し、名賢功徳の神も祀典列する等は建国の体に添うことを論じたそのほか『正志斎文稿』所収の篇に国体に関する議論がある。以上、会沢正志斎国体論について内務省神社局 (1921) がまとめたところによれば、その要点は、皇統連綿として上下正しいこと、三種の神器尊貴であること、皇国地位万国優越して比類ないことであり、その行論は、一糸乱れもなく1921年大正10年)の当時でも加えるべき点は多くないという。 藤田東湖藤田幽谷の子であり会沢正志斎門に入った熱烈な尊王愛国の士であり、その有名な回天詩史」「正気歌」などの詩歌は、神州光輝国体尊厳絶唱するものである藤田東湖はまた『弘道館記述義』を著して弘道館記の意義述べ日本国体において皇室は必ず日神一系であることを論じて次のように言った曰く古く天皇生じてスメラミコトという。スメラという言葉統御をいう。ミコトという言葉尊称である。おそらく宇内統御する至尊という意味である。天業称してアマツヒというのは天日である。ツギ継嗣である。これはおそらく日神後胤なければ皇緒を継げないことを言う。天日継嗣世々神器奉じて万姓君臨する。群神の後胤も職を世襲して皇室輔翼する。これはおそらく神州基礎建てる発端である。嗚呼(ああ)、天祖天孫創業垂統する所以威厳があって偉大である。宝祚の隆の天壌無窮は偶然ではない、と。藤田東湖はまた会沢正志斎箸『迪彜篇』に序文寄せて日本建国の体はその根底から西土異なり、その尊厳確乎として他国比較ならないことを述べた豊田松岡会沢正志斎門に入り彰考館総裁になった藤田東湖著書弘道館述義』に序文寄せていわゆる神聖大道の一源なるものを説いた。また藩主献じた「禦策」において、日本国神聖な所以神明尊厳を民に知らせて邪教の入る隙のないようにすべきことを論じた

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