後期水戸学
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「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として再開される。 この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子には小宮山楓軒、青山延于らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷は対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。幽谷の門下、会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功らが、その後の水戸学派の中心となる。 文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。 天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・藤田東湖であり、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。 徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。 この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが「弘道館記」の解説書である「弘道館記述義」である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この中で、東湖は本居宣長の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想[要出典]は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。 嘉永6年(1853年)のペリー来航は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、安政の大地震で東湖は死亡し、安政の大獄で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。 水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。
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後期水戸学
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幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を強く打ち出した。水戸学者会沢正志斎の著書『新論』が国体観念を浮上させる画期となった。『新論』の構想は、危機克服の指針を求めていた志士たちの心を捉え、水戸藩を超えて日本全国に流布した。このことは国体論を一つの思想として独立させた。 内務省神社局 (1921) によれば、国体論の発達は後期水戸学において絶頂に達した。いわゆる復古国学は、国体尊崇が盛んであったが、儒学排斥に熱心になりすぎて、第三者からみて固陋独断に陥ったところがあった。水戸学にはそういうところがない。その特色は、常に視点を高所に置いて、偏せず捕らわれず、徹頭徹尾に批判的な見地に立ち、内に愛国尊王の精神を抱くというものであるという。 水戸学の主要人物は、水戸藩主徳川斉昭を中心として、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖などである。 徳川斉昭は天資英邁といわれ、国体に関して自己の見識を持っていた。その見識は、みずから創設した弘道館の趣旨と由来を記した「弘道館記」「弘道館学則」「告志篇」や、天皇に地球儀を献上した時の上表文に見ることができる。 「弘道館記」に曰く、上古に神聖が皇位を立て皇統を垂れ、これによって天地は位置し万物は育成する。それが全宇宙に照臨し宇宙内を統御する所以は、今まで「斯道」に依ってきた。「宝祚(皇位)これをもって無窮に、国体これをもって尊厳に、蒼生(人民)これをもって安寧に、蛮夷戎狄(諸外国)これをもって率服(服従)す」。しかしそれでも歴代天皇は満足せず、外国を参照して善を為すことを楽しんだ。すなわち、西土の堯・舜・夏・殷・周の治教などを取り入れて皇道に役立てた。これによって「斯道」はいよいよ明大になって完成した。しかし中世以降、異端邪説が民を欺き世を迷わし、俗儒曲学が自国を捨て外国に従い、皇化が衰え禍乱が続き、大道が世に明らかにならなくなって久しい、と。 「告志篇」では次のように述べた。そもそも日本は神聖の国であって、天祖(天照大神)天孫(歴代天皇)が皇統を垂れ皇位を建ててから、その明徳は遠い太陽とともに照臨し、皇位の隆盛は天壌とともに窮まり無い。君臣父子の常道から衣食住の日用に至るまで全て天祖の恩賚である。万民が永く飢えや寒さを免れ、天下に皇位を狙う非望の萌しが見られなかったのは有り難いことである。しかし数千年の久しさに盛衰あり治乱あり、戦国後期に至って天下の乱は極まった。東照宮(徳川家康)が三河に起って風雨に身を晒し艱難辛苦し、天朝を助け諸侯を鎮めた。二百余年の今に至るまで天下が泰平であり、人民が塗炭の苦しみを免れ、生まれながらに太平の恩沢を浴びていることは、これまた有り難いことである。「されば人たるものは、かりそめにも神国の尊きゆえんと天祖の恩賚とを忘るべからず」。天朝は天祖の日嗣であり、将軍は東照宮の神孫であり、不肖ながら我(徳川斉昭)は藩祖の血脈を伝え、おのおのは自分の先祖の家系を継承する。この点をよくわきまえ、天祖・東照宮の恩に報いんとするならば先君・先祖の恩に報いんと心掛けるほかにない、と述べた。 「弘道館記」も「告志篇」も皇統が神聖であって万世に無窮であり、国体の尊厳であって君臣の名分が明らかであることを示し、これを体現するには先祖尊崇を根本義としなければならないと述べた。 「弘道館学則」第1条に曰く、弘道館に出入りする者は弘道館記を熟読しその深意を知るべし、「神道」と「聖学」は一致し、忠孝の本はひとつであり、文武はわかれず、学問事業は効果が異ならない、と。また同第2条に曰く、「神道」「聖学」の意味は弘道館記にあるとおりである。すなわち、宝祚の無窮と君臣父子の大倫が天地とともにかわらないのは天下の大道、いわゆる「惟神」である。そして「唐虞三代の治教」は天孫が採用したものであって、これもまた人倫を明にするものである。両者は一致する。学ぶ者は宜しく「神を敬ひ儒を崇び」、もって「忠孝の大訓を遵奉すべし」と。 嘉永6年(1853)に徳川斉昭は天皇に地球儀を献上した。その時の上表文に、日本の建国の国是が生々発展にあること、神孫が永遠不変に統治する尊い国体であることを述べている。上表文に次のようにある。 高天原に事始め、遠い皇祖の世々に、天津日嗣の事業として、八坂瓊曲玉のように巧妙に天下を知らし、白銅鏡のように分明に山川海原を観て、遠い国を千尋の栲縄をもって引き寄せ、荒ぶる国を帯剣で平定した跡のように、今「現御神と天下知ろしめす我が天皇の大御代に当たりて」、仁恵は広くあまねく、天益人(天意により増える人民)は手を挙げて楽しみ合った。 思うにスサノオ尊は天壁の立つ極地を廻り、オオムナジ・スクナヒコナの二神は兄弟となって天下の国々を経営した。「しかるときは万国も固より我が神州の枝国とぞ云うべかりける」(つまり諸外国は神国日本から枝分かれした国である)。そうならば万国の有りさまを知らなくてはならない。(よって地球儀を献上する)。以上。 藤田幽谷は徳川斉昭に仕えて31人目の彰考館総裁(修史責任者)となり、大義名分を高唱した。寛政3年(1791)18歳の時に『正名論』を著し、皇室が政事の外に超越して万古不易の尊位を保つ所以を論じ、名分を正し名分を厳密にすることが国体の本領であると説いた。具体的には次のようにいう。曰く、天皇は国事に関与せず、単に国王の待遇を受けるだけであるというのはその実質を指している。しかし天に二日なく地に二王なし。よって幕府は王を称するべきではない。幕府は実質的に天下の政を摂している(代行している)から、名分上も摂政を称すべし、と。こうした藤田幽谷の『正名論』は幕府を弁護するものであって当時の時勢が分かる。 会沢正志斎は藤田幽谷の門弟であり33人目の彰考館総裁となった。識見高邁であり、公平な見地で国学を批判し儒学を考察し、両者の間に一家の国体説を樹立し、水戸学の国体尊厳説を大成し、近世国体論の極地に達したといわれる。数々の著書があり、そのすべてが国体を論じ名分を説くものである。そのうち国体論として最も有名なものが『新論』である。 文政8年(1825)会沢正志斎は『新論』を書きあげ水戸藩主に献上した。現状を厳しく批判したため公刊を許されなかったが、秘かに筆写された。『新論』は冒頭に「国体」と題する上中下3章を設けた。儒学でなく国学でもなく一個として独立した見地に立つ。後に栗田寛がこれを天朝正学と命名した。会沢正志斎は『新論』で皇国の尊貴、皇恩の宏大、これを奉体する国民の思想が人為でなく自然に生じることを説いた。次のように述べる。 神州は太陽の出づる所、元気の始まる所、天日の嗣が代々皇位について永久に変わらない。もとより大地の元首であって万国の綱紀である。まことによろしく天下を照らし皇化を遠近に及ぼす。 第一に「国体」について謂う。これは神聖が忠孝をもって国を建て、そして武をとうとび民の命を重ずるに及ぶ。 帝王が四海を保ち長久に治め天下を揺るがさないために頼みとすべきところは、万民を威圧して一世を把持することではない。億兆(人民)心を一にして皆その上に親しんで離れるに忍びないと思うところにこそ誠に頼むべきである。 俗儒は、名分に暗く、明や清を華夏や中国と称して「国体」を汚辱する。あるいは時勢を追って名義を乱し、天皇を寓公(亡命者)のように見なし、上は歴代天皇の徳化を傷つけ、下は幕府の義理を害する。 昔、天祖が始めて国を建て天下を皇孫に伝えるに及び手づから神器を授けて天位を千万世に伝える。天胤の尊厳を犯すべからず。君臣の分が定まる。 忠孝が立って天人の大道が明らかに顕われる。忠をもって貴を貴とし、孝をもって親を親とする。億兆は心を一にして、上下は互いに親しむ。これこそが帝王が天下を保つために頼みとすべきところである。そして祖宗が国を建て基を建てる所以の大体である。 会沢正志斎『迪彜篇』に収める国体論は『新論』に次いで広く読まれた。日本が尊い理由の第一は、万国のなかで日本だけが易姓革命がなく皇統連綿として神世から今に至るからであると論じた。 万国は、それぞれ自国の君主を仰いで天とする。どの国も自国を貴び外国を賤しいとすることは同じわけだから、自国を尊び他国を夷蛮戎狄と呼ぶことはよくある習わしである。しかし万国はどこでも易姓革命というものがある。国が乱れるときは君主を殺害し、あるときは追放し、あるときは禅譲させ、あるいは世嗣の絶えるときは他姓の者に継がせる。その天とするところがたびたび変わるのだから、その天地というのも小天地であり、その君主というのも小朝廷である。 万国の中でただ神州(日本)のみは天地開闢してから天日嗣が無窮に伝えて一姓綿々としている。庶民が天と仰ぐ皇統は変わらない。その天とするところが偉大であることは宇内に比類がない。今この万民は、天地の間で無双の尊い国に生まれながら、わが「国体」を知らないでいいわけがない。 国の体というのは人の身に五体があるようなものであり、国の体を知らないのは自分の身に五体があるのを知らないのも同然である。 三種の神器のようなめでたい例は異域で聞かないことなので、神州の尊いことは宇内に無双であり、日嗣の君こそ宇内の至尊と称すべきである。以上。 会沢正志斎は著書『下学邇道』の中で日本の地理上の位置、皇位の安泰などの点から神国日本の優秀を説いて以下のように述べる。 一君二民は天地の道である。世界は広く万国は多いけれど至尊が二つであってはならない。東方は神明の舎、太陽の生ずる所、元気の発する所、季節でいえば春であり、万物の始まる所である。そして神州(日本)は大地の首にある。万国の首として四方に君臨すべきである。ゆえに皇統綿々として君臣の分は一定不変である。このことは万国にない。なぜなら天下の至尊は二つとないからである。一君二民の義に誰も疑問を抱かない。 神州(日本)は万国の元首である。皇統は二つとない。万民は一君を奉ずる。漢土は神州に次ぐが、その君臣は一定不変でありえず、上古から易姓革命があって、一君はただ万民を養うことができれば成功とされる。その他の夷蛮戎狄はどれも国を始めから作り変える。 天地の大道は一君二民の義である。万国の元首は二つとなく、万民一君を奉じる国は二つとなく、天の後胤を絶対に変えてはならず、他国に易姓革命がある。これは天下の道であり、勢いそうならざるをえない。以上。 会沢正志斎『閑聖漫録』に尊王論がある。これによれば、世人は何かと尊王を口にするが王を尊ぶべき理由については漠然として真実を知らない。これは耳学問の弊害であるから今その実事を論じてみせよう、といって、以下の類いを尊王の義とした。 東照宮(徳川家康)は政教を天下に施すにあたって、諸侯を率いて京都の朝廷に参じ、君臣の義を正した。皇室は戦国のころ窮乏していたが、東照宮は禁裏を拡張修理して皇室領を増やし、秘籍や宝器で散逸したものを元に戻した。 威公(水戸家初代徳川頼房)は神道を崇敬した。 義公(水戸家二代徳川光圀)は神儒を学んだ。元旦に京都を遙拝し、親王や公卿の礼を正した。大社から村祠まで修理をくわえ由緒をただし正礼をおこなわせ、淫祠をこわして迷信をとりのぞいた。国史を修めては皇統を正閏し、蛮夷内外の名分を厳格にした。礼儀類典を編纂して朝廷に献上した。 以上の類いは全て尊王の義である。 会沢正志斎『退食閑話』は弘道館記を和文で解説したものである。皇統の神聖を論じ、国体の尊厳を説き、人倫の大道が元初より具わっていたことを明らかにしたという。弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳、蒼生以之安寧」とあることについて次のように解説した。 天照大神が三種の神器を授けてから君臣の義は正しく、宝鏡を見るときは我(天照大神)を視るようにせよと命じてから父子の親しみは厚く、忠孝の教えはともに完全である。これによって人心が一定して他に移らず、天皇の位は千万年も変わらない。今日仰ぐところの至尊は即ち天照大神と同体であるので人情風気はおのずと厚く、皇位に野望を抱く者もない。これが宝祚の無窮である理由である。 国体の尊厳というのは、海外に多くの国があるけれど天地の間に尊いものは一つしかない道理であるのに、外国において帝王を称する者はたびたび交替する。天朝(日本)の皇統綿々として天壌無窮であることは外国の及ぶところではない。このようなめでたい例についてその基本を考えると、天地の始めから、皇祖の詔勅にある君臣父子の大倫が正しく、人情風気も厚い。このように万国に勝れているので、おのずから国体も尊厳になるのである。 蒼生の安寧というのは、古言に惟神(かむながら)と言うように、古くは神聖の教えのままであり君臣父子の大倫が乱れなかったので、外国のような大乱がなかった。しかし、公家が遊楽にふけて神聖の教えが衰え、君臣父子の道も正しくなくなり保元平治の乱がおきて朝廷の権威が衰えてから、戦乱が続いた。やがて東照宮(徳川家康)が禍乱を平らげたおかげで民は戦禍を免れて父母妻子を養って安穏に人生を送ることができるようになった。神聖の教えが正しく、君臣父子の大倫も衰えず、天下の乱も平和に戻った。これによって蒼生(人民)も安寧になったのである。 会沢正志斎『江湖負暄』に「建国の大体、万世といえども変えるべからざる事」と題して、国体が変わるべきでない所以、および三種の神器と国体との関係を論じ、また「建国の大体を明らかにして天下の人心を一にする事」と題して、祀典(祭祀の儀式)を修めて民の迷信を絶ち、歴代天皇の祀典を興し、諸国の名祀を再興し、名賢功徳の神も祀典に列する等は建国の体に添うことを論じた。 そのほか『正志斎文稿』所収の篇に国体に関する議論がある。以上、会沢正志斎の国体論について内務省神社局 (1921) がまとめたところによれば、その要点は、皇統連綿として上下が正しいこと、三種の神器が尊貴であること、皇国の地位が万国に優越して比類ないことであり、その行論は、一糸の乱れもなく1921年(大正10年)の当時でも加えるべき点は多くないという。 藤田東湖は藤田幽谷の子であり会沢正志斎の門に入った。熱烈な尊王愛国の士であり、その有名な「回天詩史」「正気歌」などの詩歌は、神州の光輝や国体の尊厳を絶唱するものである。藤田東湖はまた『弘道館記述義』を著して弘道館記の意義を述べ、日本の国体において皇室は必ず日神の一系であることを論じて次のように言った。曰く、古くは天皇を生じてスメラミコトという。スメラという言葉は統御をいう。ミコトという言葉は尊称である。おそらく宇内を統御する至尊という意味である。天業を称してアマツヒというのは天日である。ツギは継嗣である。これはおそらく日神の後胤でなければ皇緒を継げないことを言う。天日の継嗣は世々神器を奉じて万姓に君臨する。群神の後胤も職を世襲して皇室を輔翼する。これはおそらく神州の基礎を建てる発端である。嗚呼(ああ)、天祖天孫が創業垂統する所以は威厳があって偉大である。宝祚の隆の天壌無窮は偶然ではない、と。藤田東湖はまた会沢正志斎箸『迪彜篇』に序文を寄せて、日本の建国の体はその根底から西土と異なり、その尊厳は確乎として他国と比較にならないことを述べた。 豊田松岡も会沢正志斎の門に入り、彰考館総裁になった。藤田東湖の著書『弘道館述義』に序文を寄せて、いわゆる神聖大道の一源なるものを説いた。また藩主に献じた「禦虜策」において、日本国の神聖なる所以、神明の尊厳を民に知らせて邪教の入る隙のないようにすべきことを論じた。
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