後期モンゴルの侵略
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「モンゴルのインド侵攻」の記事における「後期モンゴルの侵略」の解説
1299年、忠告に逆らいデリーのスルターンアラー・ウッディーン・ハルジーはモンゴルを攻撃した。ハルジー軍の先発隊はザファー・カーン自身が率いていた。彼はモンゴル軍を打ち破り追撃を加えた。しかし、モンゴルの将軍クトゥルグ・ホージャ(英語: Qutlugh Khwaja)はザファーを罠にかけ包囲し殺害した。だが、続けられたアラー・ウッディーン・ハルジーの攻勢を前に、モンゴル軍は撤退せざるを得なかった。[要出典]モンゴルが反撃に出るのには長い時間を要した。そして、モンゴル軍は、チットール包囲中という恐らくアラー・ウッディーン・ハルジーにとって最悪のタイミングに侵攻してきた。 この時モンゴル軍は身軽であった。タルギー(Targhi)指揮下の12,000の軍勢は迅速にデリーに攻撃を仕掛け、多くの知事はデリーに援軍を送る間もなかった。 [要出典]アラー・ウッディーン・ハルジーは約二か月でシーリーへ撤退せざるを得なかった。モンゴル軍は周辺地域のみならずデリー自体にも略奪を行った。 アラー・ウッディーン・ハルジーはシーリーで城塞を保持し続け、タルギーは数か月で包囲を解き撤退した。同時代の歴史家バラニ(Barani)はこれをスーフィーのシャイフであるニザームッディーン・アウリヤーの祈りによる「奇跡」と考えた。 アラー・ウッディーン・ハルジーは国境地帯の城塞を強化し、より多くの守備隊を配備した。 新たなより効果的な防御施設がこの地域に建造された新たな軍勢と特別な知事が、国境地帯を管理し防衛するために新設された。 こうした見積もりにもかかわらず、アリー・ベグ(英語: Ali Beg)とタルタク(Tartaq)に率いられたモンゴル軍は突然パンジャーブとその隣のアムロハ(英語: Amroha)に姿を現した。モンゴル軍はパンジャーブを略奪し、道中の全てを焼き払った。 アラー・ウッディーン・ハルジーは二人の名将ガーズィー・マリクとマリク・カーフールに大軍を率いさせて侵略者と戦わせた。彼らは略奪して中央アジアへ戻ろうとしていたモンゴル軍を奇襲した。アムロハの戦いでクバク(Kubak)をはじめとしたモンゴルの将軍たちは捕えられ、他の捕虜たちとともにシーリーに引き戻された。アラー・ウッディーン・ハルジーは将軍たちをゾウに踏みつぶさせて処刑し、その他の捕虜は城壁にその首を吊るして晒した。[要出典]モンゴル軍は、1306年に即位するケベクの下で再び攻めてきた。モンゴル軍はムルターン近くでインダス川を渡りヒマラヤへと近づいたが、パンジャーブの知事であったガーズィー・マリクに食い止められた。一人の将軍を含むおよそ50,000のモンゴル兵が捕虜となった。アラー・ウッディーン・ハルジーは彼らを全員処刑し、彼らの妻子は奴隷して売り払った。 この時代のモンゴルの最後の侵入は1307年から1308年にかけてイクバルマンド(Iqbalmand)とタイ・ブー(Tai Bu)の指揮下で行われた。彼らが何とかインダス川を渡ったところにアラー・ウッディーン・ハルジーの軍勢が襲い掛かり彼らは全員斬殺された。同年、チャガタイ・ウルスの君主ドゥアもこの世を去り、後継者を巡る争いの中で一連のモンゴルのインド侵攻は終わりを告げた。[要出典]アラー・ウッディーン・ハルジーは独創的な思想家であり戦略家として卓越していた。彼は略奪する軍勢を老練な将軍ガーズィー・マリクの下カンダール(英語: Kandhar)・ガズニー・カーブルへと送り込んだ。こうした攻勢は効果的にモンゴルのインドへと引かれたライン・オブ・コントロール(line of control)を痛めつけた。 シワナ(英語: Siwana)・ジャロル(Jalore)・ワランガルの包囲攻略後、アラー・ウッディーン・ハルジーのインド人の奴隷マリク・カーフールに率いられたインド軍は1311年デーヴァギリからマーバールを侵略した。彼らは莫大な金と戦利品とともに帰還した。モンゴルの将軍アバチ(Abachi)がカフル(Kafur)を殺そうとした後、アラー・ウッディーンは彼を処刑した。捕虜となりデリーでイスラームに改宗した何千ものモンゴル人がこの件で共謀しており、スルターンは全モンゴル人を捕えるよう命じ、約20,000人が処刑されたと伝えられている。デリーの宮廷はまた、ペルシアのイルハン朝のオルジェイトゥの使者も処刑したという。[要出典]1320年ズルジュ(Zulju)(もしくはドゥルチャ(Dulucha))に率いられたカラウナスがジェーラム渓谷(Jehlam Valley)を通り、ほとんど抵抗も受けないままカシミールに侵入した。カシミールの王スハデーヴァ(Suhadeva)はズルジュに莫大な貢納金を払うことで追い払おうとした。彼が抵抗軍を組織しようとして失敗した後、スハデーヴァはキシュトワールに逃亡し、カシミールの人々はズルジュの為すがままにされた。モンゴル軍は家々を焼き払い、男は殺し女子供は奴隷とした。王の最高指揮官であるラーマチャンドラ(Ramacandra)に率いられた避難民のみ、ラー(Lar) 砦に逃れることができた。侵略者は冬将軍が来るまで八か月にわたり略奪を続けた。ズルジュがブリナル(Brinal)に向けて出発した時、ディヴァサール(Divasar)地域で大雪のため多くの兵と捕虜が失われた。 その次の主要なモンゴルの侵攻は、ハルジー朝がトゥグルク朝に取って代わられた後に起きた。1327年、タルマシリンは先年にデリーへと使者を送った後、チャガタイ軍を率いて国境の町ラムガーン(Lamghan)とムルターンを略奪しデリーを包囲した。 トゥグルク朝はこれ以上の略奪を避けるため莫大な貢納金を払った。ムハンマド・ビン・トゥグルクはイルハン朝のアブー・サイードに、先年大ホラーサーンに侵入したタルマシリンに対抗して同盟を組むことを提唱したが、タルマシリンへの攻撃は実現しなかった。 タルマシリンはのちにイスラーム教に改宗した仏教徒であり、宗教対立はチャガタイ・ハン国において紛争の原因となっていた。 これ以上の大規模な侵入がインドに対して行われることはなかった。遂にモンゴルのインド征服は失敗の内に終わることになる。しかし、モンゴルの傭兵の小集団は北西インドの多くの地方勢力に雇われることとなる。アミール・カザガーン(Amir Qazaghan)はカラウナスとともに北インドに侵入している。彼はまた1350年に何千もの軍勢をデリーのスルターンのムハンマド・ビン・トゥグルクに地方の反乱を鎮圧するために提供してもいる。
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