後期ムガル帝国への道と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/31 08:20 UTC 版)
「バハードゥル・シャー1世」の記事における「後期ムガル帝国への道と死」の解説
しかし、バハードゥル・シャー1世がその治世間の戦闘で、戦功をたてたインド人を貴族に多数とりたてたことは、イラン系、トルコ系、モンゴル系の貴族を憤慨させ、ムガル宮廷の分裂を招いた。そのうえ、バハードゥル・シャー1世がジャーギール(給与地)を与えすぎた結果、帝国の行政は悪化し、財政は急速に悪化していった。 さらに、アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の領土では各地で反乱が頻発し、マラーターが勢いを取り戻してデカンや北インド方面の各地を略奪していた。 父の治世から反乱を起こしていたジャート族も、アーグラ付近のバラトプルで反乱を継続し、ムガル帝国の根幹を脅かすようになった。 パンジャーブでも、ゴーヴィンド・シングが暗殺されたことで、シク教徒がバンダー・バハードゥルに率いられ反乱を起こしていた。 ラージプート諸王国は自分の領地の主権を取り戻して事実上帝国から独立し、ザミーンダールのなかでも大きなものは半独立化し、納税を拒否する者もあらわれた。 このような皇位継承戦争や反乱軍との戦いは、帝国に巨額の出費を強いることになった。デカン戦争以来ずっと悪化していた財政をさらに圧迫し、1707年の段階で1億3000万ルピーあった帝国の国庫はその治世に底をついた。バハードゥル・シャー1世の治世に関して、歴史家ハーフィー・ハーンはこう断言している。 「 「帝国には出費をまかなうだけの収入がない」 」 アウラングゼーブの死後、その悪政の結果として徐々に崩壊に向かっていった帝国は、バハードゥル・シャー1世ではどうすることもできず、彼の治世は後期ムガル帝国への始まりであった。 そうしたなか、1712年2月27日、バハードゥル・シャー1世はラホールで死亡した。その4人の息子たちの間で帝位をめぐり次の皇位継承戦争が始まり、帝国はまたしても破滅への道を歩んでいった。
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