後期の諸改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:29 UTC 版)
「ポーランド・リトアニア共和国」の記事における「後期の諸改革」の解説
共和国は政治システムの改革のために大変な労力を費やし、1791年に近代ヨーロッパでは初めての成文国家憲法である5月3日憲法を制定した。これはその2年前に制定されていたアメリカ合衆国憲法についで、世界で2番目に早く誕生した成文憲法である。革命憲法は旧来のポーランド・リトアニア連合国家を世襲王制のポーランド・リトアニア連邦国家へと変貌させ、古いシステムが持つ有害な特徴を排除していった。新しい憲法では以下のように取りきめられた: リベルム・ヴェトを廃止し、シュラフタの連盟結成を禁止する。 政府では立法権、行政権、司法権の三権分立が導入される。 「国民主権」を創出し、貴族だけでなくブルジョワジーにも参政権を拡張する。 小作農の権利を向上させる。 宗教的寛容を保障する(ただしカトリック教徒の棄教は罪に問われる)。 共和国を弱体な緩衝国の地位に留めておきたい近隣列強によって全国境から攻め込まれることになったために、これらの改革は手遅れとなった。しかし、国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキとその他の改革者たちによる強国化政策は国内に大きな反響を生んだ。ロシアは5月3日憲法の政治改革による革命の波及と、共和国がヨーロッパ列強国の地位を取り戻す可能性を恐れた。エカチェリーナ2世は5月憲法を自身の命取りになる、憲法はジャコバン派の影響を受けたものだと述べていた。グリゴリー・ポチョムキン公爵はタルゴヴィツァ連盟結成のための文書を起草し、憲法については「民主主義理念とやらの伝染病」だと切り捨てた。また一方で、やはりプロイセンとオーストリアもポーランドの強国化を憂慮しており、これを領土拡大の口実にしようとしていた。プロイセンの宰相エヴァルト・フォン・ヘルツベルクは「プロイセンの王政に対する打撃」と述べ、かつてはプロイセンを従属させていたポーランドの再強国化に強い警戒心をもって臨んだ。結局、共和国が憲法制定後4年間のうちに完全に消滅したため、5月3日憲法は発効したものの、特に「クレシ」と呼ばれる東部辺境地域ではタルゴヴィツァ連盟などの抵抗勢力が結集して憲法への反対闘争を繰り広げた。
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