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後期のブルガリア・ビザンティン建築とは? わかりやすく解説

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後期のブルガリア・ビザンティン建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 15:28 UTC 版)

東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「後期のブルガリア・ビザンティン建築」の解説

12世紀に再び独立したブルガリア帝国は、東ローマ帝国衰退乗じて瞬く間領土拡大した新たに帝国首都となったヴェリコ・タルノヴォ周辺には、イヴァン・アセン2世の手によって多く教会堂建設されたことが知られている。これらはほとんどが地震被害によってダメージを受け、廃墟化しているが、彼の治世教会堂は、内部フレスコ画覆われ内接十字型平面一般的であったことが分かっている。 メッセンブリア(現ネセバル)は、黒海貿易の重要拠点として、14世紀最盛期迎えた都市で、しばしば「ブルガリアラヴェンナ」と呼ばれる短期間ブルガリア帝国支配した時期もあるが、中世のほとんどの時期東ローマ帝国勢力下におかれていた。14世紀以前建築物は、6世紀建設された旧大主教教会堂(現在は廃墟)と、10世紀ないしは11世紀建設されたアギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂のみが残る。後者は、粗石を積んだだけの無装飾外壁を持つ内接十字型平面教会堂で、ドームの高い鼓胴壁を特徴とするが、これは後の時代増築よるもの考えられる14世紀以降建設され教会堂は、アギオス・ヨアンニスのような粗野なものではなく外壁に対して装飾施され豪華なものであった内接十字型のアギオス・ヨアンニス・アレイトルゲス聖堂下部構造のみが残る)、全能者ハリストス聖堂キリスト・パントクラトール聖堂)、アギオス・テオドロス聖堂といった諸教会堂には、外壁市松模様やジグザクの模様積み施されビザンティン建築後期特徴である外壁装飾対す意識の向上を窺わせる全能者ハリストス聖堂では、ロマネスク建築影響思われる持ち送り装飾施されナルテクス上部方形鐘楼建設されているが、これは黒海貿易ジェノヴァ支援受けたものであったこと、セルビア経由して西方建築もたらされたことに関連するらしい。 ブルガリアでおそらく最も有名なビザンティン建築であるリラ修道院は、10世紀リラの聖イヴァンによって創建された。ただし、世界遺産にも登録されている現在の僧院は、創建当時僧院とは違う場所に存在するポスト・ビザンティン建築である。この修道院は、ブルガリア帝国皇帝貴族からの寄進受けて発展し東ローマ帝国援助支援をほとんど受けることがなかったので、純粋なブルガリア建築と言える東ローマ帝国のあった時代建設されたものは1335年建設されフレリョの塔のみで、最上階礼拝堂には14世紀フレスコ画残っている。

※この「後期のブルガリア・ビザンティン建築」の解説は、「東欧諸国のビザンティン建築」の解説の一部です。
「後期のブルガリア・ビザンティン建築」を含む「東欧諸国のビザンティン建築」の記事については、「東欧諸国のビザンティン建築」の概要を参照ください。

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