後期のブルガリア・ビザンティン建築
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「東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「後期のブルガリア・ビザンティン建築」の解説
12世紀に再び独立したブルガリア帝国は、東ローマ帝国の衰退に乗じて瞬く間に領土を拡大した。新たに帝国の首都となったヴェリコ・タルノヴォ周辺には、イヴァン・アセン2世の手によって多くの教会堂が建設されたことが知られている。これらはほとんどが地震被害によってダメージを受け、廃墟と化しているが、彼の治世の教会堂は、内部がフレスコ画に覆われた内接十字型平面が一般的であったことが分かっている。 メッセンブリア(現ネセバル)は、黒海貿易の重要拠点として、14世紀に最盛期を迎えた都市で、しばしば「ブルガリアのラヴェンナ」と呼ばれる。短期間ブルガリア帝国が支配した時期もあるが、中世のほとんどの時期は東ローマ帝国の勢力下におかれていた。14世紀以前の建築物は、6世紀に建設された旧大主教座教会堂(現在は廃墟)と、10世紀ないしは11世紀に建設されたアギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂のみが残る。後者は、粗石を積んだだけの無装飾な外壁を持つ内接十字型平面の教会堂で、ドームの高い鼓胴壁を特徴とするが、これは後の時代の増築によるものと考えられる。14世紀以降に建設された教会堂は、アギオス・ヨアンニスのような粗野なものではなく、外壁に対しても装飾が施された豪華なものであった。内接十字型のアギオス・ヨアンニス・アレイトルゲス聖堂(下部構造のみが残る)、全能者ハリストス聖堂(キリスト・パントクラトール聖堂)、アギオス・テオドロス聖堂といった諸教会堂には、外壁に市松模様やジグザクの模様積みが施され、ビザンティン建築後期の特徴である外壁の装飾に対する意識の向上を窺わせる。全能者ハリストス聖堂では、ロマネスク建築の影響と思われる持ち送り棚の装飾が施され、ナルテクス上部に方形の鐘楼が建設されているが、これは黒海貿易がジェノヴァの支援を受けたものであったこと、セルビアを経由して西方の建築がもたらされたことに関連するらしい。 ブルガリアでおそらく最も有名なビザンティン建築であるリラ修道院は、10世紀にリラの聖イヴァンによって創建された。ただし、世界遺産にも登録されている現在の僧院は、創建当時の僧院とは違う場所に存在するポスト・ビザンティン建築である。この修道院は、ブルガリア帝国の皇帝や貴族からの寄進を受けて発展し、東ローマ帝国の援助や支援をほとんど受けることがなかったので、純粋なブルガリア建築と言える。東ローマ帝国のあった時代に建設されたものは1335年に建設されたフレリョの塔のみで、最上階の礼拝堂には14世紀のフレスコ画が残っている。
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