りっ‐しゅう【律宗】
律宗
律宗
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後醍醐天皇の祖父の亀山天皇は、真言律宗の開祖である叡尊に深く帰依したが、後醍醐もまた律宗の振興を図った。 律宗とは、特にその代表者である叡尊の活動について言えば、1. 仏教界の堕落に対処するため、戒律(仏教における規律・規範)を重視して復興を図ったこと(律宗)、2. 釈迦・文殊菩薩・舎利(しゃり、釈迦の遺骨)への信仰を重視し、荒廃した寺院を復興し、様々な仏像を作成させたこと、3. 大衆との関わりを重視し、貧民救済などの慈善事業を活発に行ったこと(忍性も参照)、4. 密教僧として、鎌倉時代を代表する密教美術の制作を多く指揮・監修したこと、などが挙げられる。 後醍醐は、嘉暦3年(1328年)5月26日から始まる元徳2年(1330年)までの3年間、真言律宗の忍性に「忍性菩薩」、信空に「慈真和尚」、唐招提寺中興の祖の覚盛に「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』)。これらは、真言宗の高僧でありながら真言律宗が出身母体である腹心の文観房弘真からの推挙が大きかったと見られる。 忍性は、貧民やハンセン病患者、非人の救済に生涯を捧げた律僧である。後伏見天皇から叡尊への「興正菩薩」が、正安2年(1300年)閏7月3日だから、律僧が諡号を贈られたのは約28年ぶりで、忍性の入滅からも25年が経っている。 後醍醐はまた、名誉を贈るだけではなく、各地の律宗の民衆救済事業に支援をしたと見られる。たとえば、東播磨(兵庫県東部)では、加古川水系の五ヶ井用水に対し、中世に何者かによって大規模な治水工事が行われ、その結果、700ヘクタールもの水田を潤す大型用水施設となり、加古川大堰が1989年に完成するまで、地域の富を生み出す心臓部になったことが知られている。金子哲は、同時代の記録を突き合わせて、この事業は当時まだ20代後半から30代だった文観によって開始されたのではないか、とした。そして、同時期の同地に、文観によって立てられた石塔群が大覚寺統の勢力範囲内にあり、「金輪聖王」(天皇)云々と掘られていることから、これらの事業には後宇多上皇(後醍醐父)や皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)からの支援があったのではないか、と推測した。
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律宗
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律宗
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律宗では我禅坊俊芿が南宋からの帰国後、京都に泉涌寺 を再興し、台・密・禅・律兼学の道場とした。後述のように宋学を日本に伝えたのも彼であるという。 思円房叡尊は律宗中興の祖といわれ、西大寺を再興して戒律復興に努めるいっぽう、道路の修復や架橋、貧民・病者の救済など社会事業に力を尽くした。叡尊はまた、元寇に際して敵国調伏の祈祷を石清水八幡宮でおこなったことでも知られる。 叡尊の弟子の良観房忍性は、北条氏の保護も受け、鎌倉の極楽寺を再興してそこを拠点に旧仏教の復興のため尽力した。同時期に鎌倉で活躍していた日蓮からは「律国賊」と論争を挑まれたことがある。また、師叡尊の志をついで社会事業に尽くし、西大寺にいた当時、奈良にハンセン病患者を救済するための施設として北山十八間戸を設立し、その経営にあたった。 他に律宗出身の学僧としては、円照とその弟子凝然がいる。特に凝然の『八宗綱要』は日本仏教史上重要な文献である。 このように、旧仏教は戒律の復興を掲げて、国家からの自立と非人などの社会的弱者や女人もふくんだ個人の救済に努めたが、新仏教とりわけ念仏に対する対抗意識も強く、これを排撃する側に加わることもあった。上述した承元元年の弾圧はそのことにより引き起こされたものであった。そのいっぽう、華厳宗の高弁は三時三宝礼により「南無三宝後生たすけさせたまえ」と唱えるだけで成仏できると説き、貞慶は唯心の念仏をひろめるなど、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、これによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとした。
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