引退~晩年
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1940年1月場所で3勝12敗と大きく負け越したことで体力の限界を感じ、この場所を最後に現役を引退、年寄・千賀ノ浦を襲名、のちに楯山として後進の指導にあたった。現役時代に技能派力士として活躍した経験を踏まえて、伊勢ヶ濱部屋の隆盛に尽くした。特に同郷出身である照國萬藏は一旦人員整理されて泣きながら帰郷している所を助けた縁で育成し、「照國は私の最高の芸術作品だ」と自慢していた。なお、照國が大関へ昇進した1942年に養子縁組をしているが、照國自身が清瀬川の縁戚に当たることから、清瀬川は激怒したという。 1968年1月には停年退職を待たずに廃業し、相撲評論家「魚雷亭主人」というペンネームにて辛口の批評で知られた。特に、当時大人気だった大鵬幸喜の横綱土俵入りの形に注文を付けて前傾姿勢を批判したが、それが大鵬の相撲の強さに繋がっていることも同時に指摘した。1974年5月12日、食道がんのため神奈川県大磯町で死去。68歳没。
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引退 - 晩年
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「ザ・デストロイヤー」の記事における「引退 - 晩年」の解説
アメリカに戻ってからは年1回、全日本プロレスの「サマー・アクション・シリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退した。7月29日に日本武道館で行われた引退試合では馬場および息子のカートとトリオを組み、永源遙、渕正信、井上雅央組と対戦。井上を足4の字固めに仕留めた。退場時には、和田アキ子の『あの鐘を鳴らすのはあなた』がテーマとして使用された。その後はオハイオ州アクロンの高等学校で体育教師に転じ、水泳教室のインストラクターも務めた。 その後もたびたび来日して、日本のプロレス界やマスコミに登場を続けた。2007年には「レッスルキングダム2」の宣伝のためにブッチャーと共に登場した。同年12月20日、アントニオ猪木が主催するIGFが有明コロシアムで開催した「GENOME2〜猪木 Fighting Xmas〜」に特別立会人として来日。カート・アングルとケンドー・カシンの一戦では、場外でイスを振るおうとしたカシンを制止して会場のファンから大歓声を浴びた。 2011年8月27日には『ALL TOGETHER 東日本大震災復興支援チャリティープロレス』に登場、「デストロイヤー杯争奪 ALL TOGETHER スペシャルバトルロイヤル」の立会人を務めた。 2017年、プロレスラー時代から日米両国の友好親善および青少年交流に貢献してきた実績を評価され、日本政府より秋の叙勲において外国人叙勲者として旭日双光章を受章することが発表された。自身の健康状態を鑑みて来日を見送った代わりに翌2018年2月に米ニューヨーク州バッファローに於いて叙勲伝達式が行われ、高橋礼一郎ニューヨーク総領事(当時)より勲章が伝達された。 最晩年の2019年2月19日、『ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜』におけるアブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーに際し、メッセージを送った。3月7日、アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローの自宅にて88歳で死去。長男のカートによると、7日正午過ぎに家族に囲まれて自宅のベッドで息を引き取ったという。
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