引退と予期せぬ復帰
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1970年6月14日、ヨルダンのフセイン1世の妻・ムナ王妃、フェリアール王弟妃一行が来日し、極真会館は滞在先である東京ヒルトンホテルへ訪問。演武会を催し、山崎と添野義二の組手を観た王室一行はその実力・迫力に驚嘆していた。同年の第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会では、再び決勝リーグ戦を山崎・添野・長谷川一幸の三者で争われた。山崎と添野の対戦は回し蹴りと突きとの応酬となったが、2回の延長戦(6分間)の後、山崎が下段逆突きを決めて添野に勝った。続いて長谷川との対戦では試合開始から約20秒が経過し、山崎が間合いを詰めてすり寄ってきたところ、長谷川が絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め、一本となり山崎に勝った。長谷川は添野にも勝ち、長谷川の優勝。山崎は準優勝で終わった。 しかし第2回全日本選手権は閉幕後、「相手を投げ倒して決めにいけば、それで一本勝ちとする」というルールが問題となっていた。長谷川は添野にも「巻き倒しての決めの下段突き」で一本勝ちを得ている。他の試合でも同様な「倒して決めの下段突き」があまりにも多く、これがパターン化することを危惧して、次回の第3回全日本選手権から「『倒して決めの下段突き』は動きに少しの無駄もなく、スムーズな一連の流れによる一動作でも“技あり”まで」とルール改正された。1971年に大学を卒業後、中日映画社へ入社し、サラリーマンとして生活していくことになり、選手を引退した。 1972年2月にスペインのカルロス皇太子とソフィア夫人が来日した。カルロス皇太子は空手を習っていたことから、極真会館副会長の毛利松平(当時、衆議院議員)の仲立ちで演武会が催された。同月21日に大山倍達以下、大山泰彦・山崎・添野・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・磯部清次・大石代悟、ハワード・コリンズなど黒帯・茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂の迎賓館に訪問。基本稽古から各種試割りのあと、第1回全日本選手権チャンピオンの山崎照朝と第3回全日本選手権チャンピオンの佐藤勝昭の模範試合が行われるなど、国賓であるスペイン皇太子夫妻の前で数々の空手の技を披露した。 同年の秋、選手を引退していたものの大山倍達の命令で第4回全日本選手権に2年ぶりに参戦。決勝リーグ戦進出を決める試合でコリンズと対戦する。戦前の予想では山崎が圧倒的有利と云われ、開始後、山崎が左右の強力な突きと荒々しい投げ技なども繰り出し、圧倒的な優勢で進んでいた。大山茂は「もし、コリンズが逃げなければ、山崎は倒すことができただろう。しかしコリンズはどうしても逃げ腰になってしまい、山崎が攻めても、すぐ場外になってしまう。誰が見ても文句なく山崎の勝ちだと思った。その時である。コリンズの右上段回し蹴りが首を捉え、山崎はガクっと膝をついてしまった。一瞬、コリンズも信じられないような表情をしていた」と試合経過を振り返っている。技ありを取られた山崎は残り時間に必死の反撃をするが試合は終了し、コリンズの勝利となった。コリンズは「山崎センパイに勝てたのは偶発的なもの。決して実力ではなかった。万にひとつの奇跡に近い勝ち方だった」とコメントし、山崎は「負けは負け。言い訳はできないよ」とそれぞれ語った。長谷川の試合も山崎有利という戦前の予想が外れた結果となり、両試合の敗因を大山茂は「技と精神の関係」、大山泰彦は「天才ゆえの欠点」と分析している。
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