上書
(建白書 から転送)
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上書(じょうしょ)とは、臣下から主君・上官に対して意見を記した文書を提出すること、またその文書。上表文・言上書・表勘文・上申書・建白書などの別名を持つ。
- ^ “申し立て等で使用する書式”. 札幌地方裁判所. 2019年8月21日閲覧。
- ^ “ネットのデマを信じ出頭を拒む”. 共同通信 (2019年8月21日). 2019年8月21日閲覧。
- ^ 沖縄「建白書」を永久保存へ 政府、国立公文書館に 沖縄タイムス 2020年2月28日
- 1 上書とは
- 2 上書の概要
建白書
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1881年(明治14年)10月5日、北会津郡面川村の平民であった加藤正記は、次のような内容の『若松県分県建白書』を政府の参議(大隈重信か)へ提出し、分県を訴えた。 今年は明治天皇による地方巡幸の年であり、親王の有栖川宮熾仁が猪苗代湖の疏水工事の視察で当地を訪れる。その意思は治績を検校し、民情を視察することにある。 若松の地は重嶺で四境を囲まれ、その地勢と民情はほとんど一つの国のような状況である。かつて若松県・福島県・磐前県が3県に分かれていたように、行政区画はその地勢に基づいて成立すべきである。 なのに、明治9年にはそれら3県が合併されて1つの県とされた。 会津は道路が険悪で、舟車の便がない。交際が開けず、人民は固陋である。戊辰戦争の戦火で市は蕩尽にあり、惨状を極め、民力は愈々萎靡して、しかして振るわない。若松県が明治9年に廃止されて以来、民俗はますます頑陋に陥り、進取の気力に乏しく維持の精神なく、工業が振るわず、物産が起こらない。学事は漸く廃し、道路はますます壊れ、金融は日に壅塞し、百事が月に委廃し、若松市中は寂しく、雀羅を設けるほどである。 三県合併後の福島県議会では、会津地方からは二、三の代議士を県議会においてこれを究議極論するといっても、あるいは少数にして消滅し、あるいは多数に圧倒されて、その意志を果たせない。会津と中通り・浜通りとは利害が異なり、会津の利害は『福島県』では反映されない。 これら地勢と民情の理由から、産業発展の糸口として、行政区域の自立である分県政策を要求する。 会津は田園およそ30万石以上で、戸数は4万にのぼり、人口は20万に下らない。徳島県や福井県や鳥取県も一度は合併されて廃止されたが、住民の分県運動によって復活した。同様に会津も分県されるべき正当性がある。 この建白書に続いて、同様の内容の建白書が同年から2年後にかけての5度にわたり、会津地方の住民らによって参議の大隈重信や内務卿の山田顕義、元老院議長の佐野常民へ提出された。
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