承元の法難
(建永の法難 から転送)
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承元の法難(じょうげんのほうなん)とは、1207年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件。建永の法難(けんえいのほうなん)とも。
注釈
- ^ 興福寺奏状…通説では興福寺出身で当時笠置寺に居た貞慶によるものとされているが、森新之介は九箇条の失を掲げた本文と法然らの処分を求めた副状と呼ばれる部分は本来は別の人物によって書かれた2通の奏状が誤って1つの文書にされたものであり、興福寺内部は本文を執筆した貞慶らの集団と明確に法然の処罰を求めた副状を作成した集団に分かれていて、専修念仏に対する統一した意見が存在しなかったとする。
- ^ 元久3年…元久3年4月27日に、「建永」と改元する。
- ^ 五師三綱の上洛…興福寺奏状を2つの別の書状とみる森新之介は、この時興福寺に対応した摂関家の家司三条長兼の日記『三長記』の元久2年20・21日条より、貞慶の奏状が興福寺の総意で提出されたものでその内容に朝廷が応じる形で12月の宣旨が出されたと認識していた摂関家側と貞慶の奏状の存在を知らず興福寺の意見も聞かずに12月に宥免の宣旨が出されたと認識していた五師三綱側の間で話が噛み合わなかったことを指摘し、話を進めるうちに貞慶の奏状のことを知った五師三綱側は興福寺の内部不統一が発覚することを恐れて、最終的には遵西・行空の処罰で妥協せざるを得なかったとする。なお、森は興福寺奏状における貞慶の筆でない部分(いわゆる「副状」部分)はこの時に五師三綱側が出した奏状と推定する。
- ^ 建永2年…建永2年10月25日に、「承元」と改元する。
- ^ 専修念仏の停止…念仏停止令の存在については、日蓮編纂の「念仏者令追放宣旨御教書列五篇勘文状」所収の建保7年閏2月8日付官宣旨に記された「建永二年春、以厳制五箇条裁許官符」の文言及び『法然上人伝記』9巻本巻6上に記された「建永二年丁卯二月、念仏の行人に下さるゝ宣旨」の文言から建永2年2月と推定されている。ただし、上横手雅敬は前者は浄土宗攻撃のための編纂物でかつ太政官符の具体的内容の記述が無いこと、後者は法然礼讃のための著作であり、ともにその真実を伝えているとは言い難く、史実として確定できるのは、念仏停止令の宣下の見込みを伝える『明月記』の記事がある建永2年1月24日以後に停止令が出された可能性があるとする推定だけで、念仏停止令が実際に出されたのかも不明で、更に同令と延暦寺・興福寺の訴え、法然・親鸞の流罪の3つの出来事の関連性を同時代の史料から認めることは出来ないとする。一方、森新之介は何らかの宣旨・命令が出されたとするのは事実としながらも、「念仏停止」と「専修念仏者への制止」は別のものであると指摘し、後鳥羽上皇の命令は念仏停止令ではなく専修念仏者の問題行動を制止するためのものであり、法然の流罪は住蓮房・安楽房の行動を制止できなかったことが上皇に対する奏事不実とみなされたものとする。
- ^ 法然門人らの処刑…これは念仏行為が原因というよりも、後鳥羽上皇が側近女性と住蓮房・安楽房らが密通をしたと疑った可能性の方が高いとされる。なお、彼らの処刑については浄土宗側の記録にしか記されておらず、公家政権側の記録・日記類には記されていない(同時代の『愚管抄』が斬首の事実のみを記している)ため、上横手雅敬は上皇が法的手続ではなく側近に命じて私的に殺害させた可能性を示しているとし、森新之介はそもそも処刑を上皇の命令とする根拠は親鸞の『教行信証』後序にしか存在しないことから、住蓮房・安楽房の処刑は当時横行していた検非違使による恣意的な殺害であって、突然の両名の処刑を知った親鸞が朝廷内部の事情に通じないまま憶測で書いてしまった可能性を指摘している。
- ^ 善綽房(西意)・性願房の処刑…『歎異抄』や『法水分流記』によって知られることから、善綽房・性願房も法難による処刑者と解するのが通説であるが、同時代の『愚管抄』には処刑されたのは住蓮房・安楽房の2名と記されており、他の同時代史料にも善綽房・性願房の名前が登場しないことから、事実誤認や別の事件との混同の可能性が考えられる。
- ^ 法然門人の配流…親鸞ら法然門人の配流は『教行信証』後序・『歎異抄』などに書かれて古くから知られているが、諸記録から確認できる法然の配流と異なって死罪となった住蓮房・安楽房以外の門人の処罰を裏付ける記録は存在しない(なお、配流された門人を7名とするのは『歎異抄』によるものである)。喜田貞吉(「教行信証に関する疑問に就いて(第一回)」(1922))は法然以外に配流者があった事実はないとし、辻善之助(「教行信証後序問題 其一」(1922))は正式な処罰以外にも検非違使などによって京を追われたり地方に下った者もいたと推測する。坪井俊映(「浄土宗と真宗の論争」(初出不明:所載文献1982)は法難の3年前に故郷の筑後国に下った法然門人・弁長の行動を「配流」と表現していることを指摘して、地方下向を「配流」と表現する用法が存在した可能性を指摘する。森新之介は当時の越後権介藤原宗業(建永2年1月13日任命)が親鸞の伯父であることを指摘して、親鸞が法難を恐れて自主的に越後国に下ったとする[7]。
- ^ 九条兼実…出家し「円証」と号する。実弟に、太政大臣の藤原兼房、天台座主の慈円がいる。
- ^ 赦免…文献により異なる。承元2年(1207年)12月・承元4年(1210年)・建暦元年(1211年)11月と諸説存在する。
- ^ 建暦元年(1211年)11月…新暦で換算すると12月~1月。
出典
- ^ a b c 今井 雅晴『親鸞聖人の越後流罪を見直す』自照社出版、2015年7月1日。ISBN 978-4865660135。
- ^ 詳説 日本史(山川出版社)
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2609354 法然上人行状画図(四十八巻伝)
- ^ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/187942 歎異抄蓮如写本 西本願寺所蔵 (重要文化財)
- ^ a b 今泉淑夫『日本仏教史辞典』吉川弘文館、1999年10月、480-481頁。ISBN 978-4642013345。
- ^ 野田憲雄. 鹿ケ谷因縁談 : 住蓮山安楽寺 松虫鈴虫物語(沢田文栄堂)1897.7
- ^ 森、2013年、pp.305-306。
- ^ 本願寺『顕浄土真実教行証文類』本願寺出版社、2000年3月30日。ISBN 978-4894166684。
- ^ 今井 雅晴『六十七歳の親鸞 -後鳥羽上皇批判-』自照社出版、2019年3月1日。ISBN 978-4865660579。
- ^ 本郷和人『軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のリアル』(朝日新書、2018年)
- 1 承元の法難とは
- 2 承元の法難の概要
- 3 参考文献
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