庶民院書記官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 05:19 UTC 版)
「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の記事における「庶民院書記官として」の解説
1855年12月(40歳)から庶民院書記官補佐を務めていたメイだが、50代半ばにして書記官への昇格が見えてくる。当時の庶民院書記官現職はル・マーチャントであり、庶民院議長の事務会議に毎日出席するル・マーチャントはまるで「軍艦に乗る兵士」のようだ、とのちの庶民院書記官アーチボルド・ミルマン(Archibald Milman)は述べている。しかしながら、このル・マーチャントが1870年秋にもうすぐ引退する予定であると明らかになった。メイがその後任になるのはもはや疑いようもなく、首相ウィリアム・グラッドストン(当時のピール派、後にホイッグ党と合流して自由党を形成)が庶民院議長ジョン・エヴリン・デニソン(英語版)に対し「わずかなためらいですら不当であろう」と述べるほどであった。 こうしてメイの庶民院書記官への昇進は1871年2月2日に発表され、16日には任命の特許状(letters patent)が発行された[要出典]。メイ、56歳の時である。ル・マーチャントは自身の引退のときにアースキン・メイに対し感謝を述べている。 庶民院書記官に就任した後も議事規則改革の提言を続け、1871年の庶民院業務特別委員会では「0時30分以降、異議が唱えられた業務について討議を始めることを禁止する」規則の導入を、1878年の庶民院業務特別委員会では「週に1日、歳入関連の審議のみを行い、それ以外の弁論を禁止する」規則の導入に成功した。また、1877年にチャールズ・スチュワート・パーネルがアイルランド自治問題に注目を集めようとして議会で遅滞戦術をとると、庶民院議長サー・ヘンリー・ブランド(英語版)は議員が再発防止を目指して議事規則の変更を検討しているとして、メイに返答用の資料を準備させた。メイは昔提起したことのある「遅滞用の動議では弁論禁止」「議員が故意に繰り返して議事を妨害した場合、議会侮辱罪で有罪とし、登院停止などの処罰を与える」などの改革案を提起し、庶民院院内総務のスタッフォード・ノースコートはその一部に賛成したが、ブランドはノースコートには改革を通過させる決心も票数も足りないと考え、結局1878年7月に問題が再発するまで何の処置もなされず、メイはブランドへの手紙でノースコートの態度を批判した。その後、1881年1月末に人身財産保護法案(一般的には「アイルランド強圧法」(Coercion Act)と呼ばれる)が提出されると、アイルランド人議員36名が再び遅滞戦術をとり、1月31日から2月2日には会議が41時間連続で行われた。ブランドはやむなく議会の緊急状態を宣言して、2月4日から28日まで「議会の独裁者」(parliamentary dictator)として振舞い、遅滞戦術をとった議員を追い出した後法案の審議を続けた。この事件とそれを受けてグラッドストンが1882年に行った議事規則改革は1883年に出版された『アースキン・メイ』第9版に大きな影響を与えた。 庶民院書記官以外の職責・栄誉の面では、1875年と1885年に貴族院書記官への就任も目指したが、いずれも実現しなかった。しかし、1873年11月21日に出身校ミドル・テンプルの評議員(英語版)に選出され、翌1874年6月17日にオックスフォード大学よりD.C.L.(英語版)の学位を授与され、1880年にミドル・テンプルの朗読者(reader)に、1884年8月11日には枢密顧問官に任命された。庶民院書記官経験者が枢密顧問官に任命されるのは2017年時点でもアースキン・メイの1例しかなかったという。
※この「庶民院書記官として」の解説は、「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の解説の一部です。
「庶民院書記官として」を含む「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の記事については、「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の概要を参照ください。
- 庶民院書記官としてのページへのリンク