庶民院の平議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 16:13 UTC 版)
「ヘンリー・ラブーシェア (初代トーントン男爵)」の記事における「庶民院の平議員」の解説
1826年4月、初代準男爵サー・クリストファー・ホーキンス(英語版)の支持を受けて、ホイッグ党穏健派の候補としてミッチェル選挙区(英語版)の補欠選挙で出馬した。ホーキンスはミッチェルで1議席を指名できる勢力を有し、アレクサンダー・ベアリング(ラブーシェアの母方のおじ)がラブーシェアのパトロンを務めたこともあってラブーシェアは補欠選挙と同年6月の総選挙で当選した。 議会では穀物法改正に賛成(1826年4月)、カトリック解放に賛成(1827年3月、1828年5月、1829年3月)、審査法廃止に賛成(1828年2月)、ユダヤ人解放に賛成(1829年4月、1829年5月)、通貨偽造の死刑廃止に賛成(1830年6月)するなどホイッグ党寄りの投票傾向を示し、1827年2月にホイッグ党のブルックス・クラブ(英語版)に加入した。選挙法改正をめぐり、1826年4月13日にエディンバラ選挙区(英語版)の改革に賛成、同4月27日に選挙法改正に賛成したほか、1828年3月と1829年5月にイースト・レッドフォード選挙区(英語版)の議席を廃止してバーミンガム選挙区(英語版)を新設する議案に賛成した。 カナダ事務では1827年6月にカナダにおける水運改善に向けた補助金に賛成、1828年5月にカナダ政府に関する調査委員会設立に賛成(のち委員に選出)した。1828年5月に行われた議会での初演説もカナダ政府を主題としており、「住民の好意を維持できなかったら、カナダは全く維持できない」(if ‘we could not keep the Canadas with the good will of the inhabitants, we could not keep them at all.’)と述べた。1828年7月にはアメリカの攻撃からカナダを守る必要性を述べ、「カナダを失ったら、ニューブランズウィックとノバスコシアは確実に失われ、それに伴い広大な漁場も失われるだろう」(if we lose Canada, we shall most assuredly lose New Brunswick and Nova Scotia, and with them the whole of our extensive fisheries’)とし、イングランドの海上覇権も沈むだろうと警告した。委員会が報告書を提出すると、1829年2月、4月、5月と連続してウェリントン公爵内閣にカナダ政府の改革を約束するよう求めた。1830年12月にリドー運河建設への助成金に賛成した。それ以外ではケープ植民地からの請願を提出したり、バハマに関する弁論に加わった。 1830年イギリス総選挙でベアリングの支持を受けて、今度はトーントン選挙区(英語版)から出馬した。現職議員のヘンリー・シーモア(英語版)が引退を表明し、定数2人に対し3人が立候補したが、ラブーシェアは430票で難なくトップ当選した。1830年の総選挙で当選したラブーシェアとエドワード・トマス・ベインブリッジ(英語版)が第1回選挙法改正を支持したため、1831年イギリス総選挙では2人ともに無投票で再選した。第1回選挙法改正の後の1832年イギリス総選挙と1835年イギリス総選挙でも無投票で再選した。 1831年7月21日、エセックス副統監の1人に任命された。
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