平氏政権と日宋貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 01:38 UTC 版)
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する水銀などを輸出品に貿易を行った。 平治の乱の直前の1158年(保元3年)に平清盛は大宰大弐に就任し(赴任せず)。1166年に弟の平頼盛が慣例を破り大宰府に赴任、大宰府・博多と日宋貿易の本格的な掌握に乗り出す。貿易は平氏政権の盤石となり、平氏の栄華は頂点を極めることとなる。日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握し、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。 1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、博多を素通りさせ、福原大輪田泊まで交易船が直輸した。 宋との「公式」な交易のため、宋・明州(江省寧波市一帯)の長官から方書・牒書が後白河法皇と清盛宛てに送付され、藤原永範が返書し、後白河法皇と清盛が進物した(「乾道九年始附明州綱首以方物入貢」『宋史』)。この時清盛は既に入道しており、仏門として宋の地方長官と「公式」な交易を行うが、中国(皇帝)と日本(天皇)の正式な国交および交易(すなわち朝貢貿易)ではない、とする何とも苦肉策であったが、両国の方針に沿ったものであった。ともあれ「公式」な振興策により貿易が隆盛を極めるとともに、古来の渡海制・年紀制などの律令制以来の国家による貿易統制が形骸化していく事となった(これにより鎌倉時代に至るまで大宰府権門は直接的な交易実益を喪い没落していき、名誉職としての大宰権帥としての権威付け及び有力国人が権帥、大弐への就任する形態に遷移していく)。 また一方で、宋銭の大量流入で貨幣経済が発達し物価が乱高下するようになったり、唐朝滅亡以来の異国に対する経済的混乱、社会不安などの一因ともなった。 1199年(日本の建久10年)7月、高麗と日本の商人に対し銅銭の交易が禁制とされた。
※この「平氏政権と日宋貿易」の解説は、「日宋貿易」の解説の一部です。
「平氏政権と日宋貿易」を含む「日宋貿易」の記事については、「日宋貿易」の概要を参照ください。
- 平氏政権と日宋貿易のページへのリンク