平氏政権と宋王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)
960年、後周を引き継いで文治主義的な北宋が建国されたが、朝廷は大宰府を通しての限定的な交流を続けた。私貿易(=密貿易)が博多や敦賀で行なわれるようになっていた。その貿易に目をつけたのが、当時越前守であった平忠盛であった。肥後・美作・播磨の守を歴任してきた忠盛は瀬戸内海の輸送路を掌握し、舶来品を院に進呈し、近臣として認められるようになっていく。1127年の靖康の変で北宋が滅亡すると、華南地方に南宋ができる。 1156年の保元の乱と1159年の平治の乱で平氏が台頭すると、平氏政権は開国的な政策をとって日宋貿易を切り開いた。この頃になると大宰府は衰微しており、平忠盛の子である平清盛は摂津の大輪田泊の修築などを行って、日宋貿易を盛んに推進した。この貿易によって大量の宋銭が日本に流入し、日本は貨幣経済の時代を迎えるようになった。また、栄西・道元らの禅宗や茶もこの時期に伝えられた。平氏の繁栄に反発して源氏が挙兵、平清盛が急死すると平氏は都を追われ1185年に壇ノ浦の戦いで源氏に敗れる。
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