帝位継承後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:19 UTC 版)
「レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「帝位継承後」の解説
レオポルト2世自身は進歩的思想の持ち主であったが、兄の強引な改革によって引き起こされた混乱を収めるため、皇帝即位後は農奴制廃止令の撤回、賦役の復活などの反動政策を行った。一方で質素な生活を好み、父から受け継いだ遺産を増殖させることにも成功した。 劇作家のダ・ポンテを国外追放、作曲家のモーツァルトやサリエリを冷遇するなどしたため、基本的に音楽や演劇への理解が少ないと言われるが、一方でチマローザをトスカーナ大公時代から気に入って、ロシアからの帰還を待って楽長的な職を与え、名作『秘密の結婚』作曲の契機を与えた。 レオポルト治世のオーストリア(ハプスブルク帝国)は東西からの脅威にさらされていた。ロシアのエカチェリーナ2世はオーストリアとプロイセンに革命中のフランスと戦争をさせるよう仕向け、その間にポーランドとオスマン帝国を侵略しようとし、フランス革命が飛び火する恐れもあった。これに対し、レオポルトはイギリスとの同盟交渉でロシアとフランスを牽制し、イギリスに対しては「同盟を拒否された場合はフランスに南ネーデルラントを割譲する」と足元を見られないよう脅した。イギリスの支持が得られると知ると、今度はそれを外交カードとして使い、プロイセンにレオポルトのハンガリー王即位を同意させる。さらに墺土戦争の停戦協定が結ばれ東の国境が安定すると、軍をブラバント革命の鎮圧に投入した。 1791年も外交関係での緊張が続いた。フランスでヴァレンヌ逃亡事件が起こり、妹マリー・アントワネット夫妻を危惧したレオポルト2世は、脱出に成功した国王ルイ16世の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)を介してプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行った。これはフランス人を激憤させ、フランス革命戦争になった。一方オスマン帝国とはシストヴァ条約を締結、墺土戦争を終わらせた。 在位わずか2年で死去し、帝位は長男フランツ2世が継承した。
※この「帝位継承後」の解説は、「レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「帝位継承後」を含む「レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。
- 帝位継承後のページへのリンク