帝位を狙う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:42 UTC 版)
西晋は洛陽を失陥して以降、懐帝は平陽において捕らわれの身となっていたが、313年1月に処刑された。王浚はこの件以来、次第に自ら帝位に即こうと企むようになった。配下の胡矩は強く反対したが、王浚は怒って魏郡太守に任じて遠ざけた。前勃海郡太守の劉亮・従子の北海郡太守の王搏・司空掾の高柔らもまた厳しく諌めたが、王浚は怒って彼らを皆誅殺した。また、以前より嫌っていた長史王悌も理由をつけて殺した。燕国出身の霍原は北方における名士であったが、王浚が帝位僭称について相談しても答えなかったので、敵国と通じていたとして殺害し、その首級を晒し首とした。従事の韓咸は遼西郡の柳城を統治しており、彼は盛んに慕容廆が良く士民を慰撫していると称賛し、暗に王浚の振る舞いを諫めようとしたが、王浚の逆鱗に触れて殺害された。 12月、石勒は舎人の王子春・董肇に多くの珍宝を持たせて王浚の下へと派遣し、王浚を天子に推戴すると称して、「晋朝の綱紀の緩みにより天下は混乱に陥り、皇室は凋落して江南に逃げ延びたため、中原からは主がいなくなり庶民らは頼みとするものがありません。殿下は身分も高く人望も有しており、四海(国内)を纏め上げて帝王となり得る者は殿下をおいて他にはおりません」との上表文を送った。これらは全て王浚の油断を誘うための偽りの申し出であったが、この頃には王浚の陣営からは多くの者が離れていたため、王浚は石勒の申し出を大いに喜んだ。しかしこれが本心かどうか計りかねていたので、石勒の使者を呼び寄せてこの事を尋ねると、石勒の使者は「かつて陳嬰が辺境を支配しても王とならず、韓信が項羽との争いにおいて力を得ても劉邦からの独立を図らなかったのは、智力だけでは帝王の座を争う事は出来ないと知っていたからです。楚の項羽や新末の公孫述らの没落は遠い過去の事ではなく、石将軍はそれをよく理解しているのです。古より胡人で名臣であった者は実際におりましたが、帝王となったものは未だ一人もおりません。石将軍は帝王となって妬まれる事を善しとせず、だからこそ殿下に帝王を譲るのです」と答えた。この答えに王浚は更に喜びを深くし、王子春らを列侯に封じた。そして、すぐさま石勒の下に使者を派遣し、贈り物を渡して返礼とした。 王浚の承制により側近らはみな昇進を果たしていたが、司馬の游統だけは中央から遠ざけられて范陽の統治を命じられていた。游統はこれに怨みを抱き、王浚を見限って石勒に帰順しようと考え、密かに使者を出した。だが、石勒は使者の首を刎ねると、その首を王浚の下へと送り届けて自らの誠実さを示した。王浚は游統を罪に問わなかったが、ますます石勒の忠誠を信じるようになり、その忠義を疑う事は二度となかった。また314年1月に王浚は石勒への使者を派遣したが、石勒は予め勇猛な兵や精巧な武具・兵器を見えないよう隠しておくよう命じ、替わりに弱った兵や空虚な府庫のみを王浚の使者に見せつけた。また石勒は使者の前でも王浚に深い敬意を示す素振りを示したため、使者は薊城に帰還すると「石勒の形勢は寡弱であり、その忠誠に二心は無いでしょう」と王浚へ告げた。これに王浚は大いに喜び、益々石勒への信頼の度を強めると共に、さらに増長して備えを怠るようになった。
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