市内線第1期線敷設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 08:15 UTC 版)
金沢電気軌道の発足当時、金沢市内の道路は旧加賀藩の時代からほとんど変わっておらず旧態依然としたものであった。そこで市街電車の敷設とともに市区改正・道路拡張を行うこととなり、金沢電気軌道・石川県・金沢市3者の費用負担により金沢市が工事を執行するという事業が纏められた。犀川・浅野川に挟まれた中心市街地の道路が第1期工事として施工され、1917年度(大正6年度)から1919年度(大正8年度)にかけて主要道路の幅員が8間(約14.55メートル)に拡張された。 電車敷設にあたり、金沢電気軌道では本社・車庫用地として金沢市上胡桃町(現・小将町)の金沢地方裁判所跡地を買収した。道路拡張に続く軌道敷設工事は会社の担当であり、まず第1期線として以下の区間の建設が決まった。 金沢駅前より武蔵ヶ辻へ至り右折、香林坊を経て犀川大橋へ達する路線 香林坊で分岐し紺屋坂下(兼六園下)へ達する路線 武蔵ヶ辻より枯木橋(橋場町交差点)を経て浅野川大橋へ達する路線 枯木橋より紺屋坂下を経て金沢病院(現・金沢大学附属病院)の正面へ達する路線 このうち金沢駅前から上胡桃町(車庫)までの区間が最初の路線として1918年(大正7年)10月14日に着工され、12月下旬には竣工。翌1919年1月30日に石川県知事より開業許可を得て、2月2日より営業を開始した。次いで雪解けを待って1919年3月11日より軌道敷設工事が再開され、7月9日に全区間竣工。そして7月13日に第1期線全線開通に至った。全線開業にあわせて4日間、車体に大量の電球を取り付けた5台の花電車が祝賀運転され、15日には公会堂にて竣工式典が挙行された。 電車開業前、沿線商店街では客足の減少を心配する声があったが、開業が新盆・夜店シーズンと重なったため、電車の見物客が押し寄せてかえって売り上げが増えたという。全通直後の1919年8月、本多政以が社長を退任し、専務の小塚貞義が2代目社長に就任した。
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