尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱とは? わかりやすく解説

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尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱」の解説

永禄12年1569年6月尼子勝久山中幸盛尼子氏残党蜂起し但馬山名祐豊支援を受け、毛利氏の支配する出雲侵入した。このとき、毛利氏主力豊後大友氏との戦闘のため、九州北部に展開中であり、それを狙った蜂起であった尼子氏残党出雲侵入すると、尼子氏旧臣集結し7月中旬には月山富田城攻撃した10月旧主家・大内氏残党である大内輝弘大友氏援軍得て周防侵入した。これには大内氏遺臣らも加わり一気勢力拡大し毛利氏領国支配を乱すこととなった大内輝弘の乱)。 輝弘の侵入6月尼子氏出雲侵入呼応したものであり、大友氏策略よるものであった大友氏とは永禄7年幕府仲介和睦していたが、永禄9年になると大友氏毛利氏属す筑前国の有力国人高橋鑑種への攻撃始めたその後、同じ筑前の有力国人立花鑑載毛利氏付き、それに対して大友氏立花氏居城立花山城攻め落とすなど、筑前では毛利氏大友氏攻防続いていた(多々良浜の戦い)。 毛利氏は輝弘ら大内氏残党侵入対処するため、九州展開していた軍勢撤退させ、同月のうちに輝弘ら大内残党討伐した。だが、この大内輝弘の乱により、筑前高橋鑑種不利な状況となり、輝元・元就・元春・隆景の連署起請文では「毛利氏が鑑種を見捨てない」ことを約束していたにもかかわらずそれを反故にする形となり、翌年降伏余儀なくされた。毛利氏筑前国から勢力失ったほか、豊前国でも門司城などの一部残して拠点失い北九州における毛利氏勢力大きく減退した永禄13年1570年1月、輝元は大内輝弘の乱鎮圧したのち、尼子氏残党軍を討伐するため、元春、隆景らとともに吉田郡山城より大軍を以て出陣した2月布部山の戦い勝利したのをはじめ、次々と尼子方を打ち破り元亀2年1571年8月までに山陰から駆逐した。だが、尼子勝久山中幸盛尼子氏残党勢力再興諦めず毛利氏に対して抵抗続けることとなる。

※この「尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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