尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱
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「毛利輝元」の記事における「尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱」の解説
永禄12年(1569年)6月、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党が蜂起し、但馬の山名祐豊の支援を受け、毛利氏の支配する出雲に侵入した。このとき、毛利氏の主力は豊後の大友氏との戦闘のため、九州北部に展開中であり、それを狙った蜂起であった。尼子氏の残党が出雲に侵入すると、尼子氏の旧臣が集結し、7月中旬には月山富田城を攻撃した。 10月、旧主家・大内氏の残党である大内輝弘が大友氏の援軍を得て、周防に侵入した。これには大内氏の遺臣らも加わり一気に勢力が拡大し、毛利氏の領国支配を乱すこととなった(大内輝弘の乱)。 輝弘の侵入は6月の尼子氏の出雲侵入に呼応したものであり、大友氏の策略によるものであった。大友氏とは永禄7年に幕府の仲介で和睦していたが、永禄9年になると大友氏が毛利氏に属する筑前国の有力国人・高橋鑑種への攻撃を始めた。その後、同じ筑前の有力国人・立花鑑載が毛利氏に付き、それに対して大友氏が立花氏の居城・立花山城を攻め落とすなど、筑前では毛利氏と大友氏の攻防が続いていた(多々良浜の戦い)。 毛利氏は輝弘ら大内氏残党の侵入に対処するため、九州に展開していた軍勢を撤退させ、同月のうちに輝弘ら大内残党を討伐した。だが、この大内輝弘の乱により、筑前の高橋鑑種は不利な状況となり、輝元・元就・元春・隆景の連署起請文では「毛利氏が鑑種を見捨てない」ことを約束していたにもかかわらずそれを反故にする形となり、翌年に降伏を余儀なくされた。毛利氏は筑前国から勢力を失ったほか、豊前国でも門司城などの一部を残して拠点を失い、北九州における毛利氏の勢力は大きく減退した。 永禄13年(1570年)1月、輝元は大内輝弘の乱を鎮圧したのち、尼子氏残党軍を討伐するため、元春、隆景らとともに吉田郡山城より大軍を以て出陣した。2月に布部山の戦いで勝利したのをはじめ、次々と尼子方を打ち破り、元亀2年(1571年)8月までに山陰から駆逐した。だが、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党勢力は再興を諦めず、毛利氏に対して抵抗を続けることとなる。
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