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尼子氏・織田氏との戦いとは? わかりやすく解説

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尼子氏・織田氏との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:38 UTC 版)

吉川元長」の記事における「尼子氏・織田氏との戦い」の解説

永禄8年1565年)から始まる月山富田城の戦いにおいて、従兄弟毛利輝元と共に初陣飾ったその後も父・元春に従って山陰各地尼子勝久山中幸盛尼子氏残党との戦い繰り広げる永禄13年1570年2月14日布部山の戦い武功挙げ同年2月18日祖父毛利元就武功賞された。また、その後末次城、熊野城三笠山城等の攻撃に父・元春と共に加わったが、元就が病に倒れたため、同年9月5日に父・元春を出雲残し、輝元、隆景、元長らは安芸国帰国した元亀3年1572年)、治部少輔任じられるまた、同年7月26日山内隆通嫡男である山内元通と兄弟契約を結ぶ。 天正元年1573年)に元長改名し父と共に山陰出兵する天正元年1574年)には所領万徳院建立した同年因幡国進出した尼子残党征伐行なったが、尼子残党執拗に再起繰り返した。しかし天正6年1578年の上月城の戦いで、尼子勝久山中幸盛らを自刃させもしくはこれを処刑し禍根を断つことに成功している。天正9年1581年)には織田信長方の羽柴秀吉攻囲された吉川経家籠る鳥取城救援向かったが、兵力差のために手出しができず、元春率い本隊待ちきれずに鳥取城降伏し吉川経家自刃した。 天正10年1582年6月本能寺の変契機として羽柴秀吉毛利氏和睦すると、秀吉への姿勢において輝元・小早川隆景と元春の間に差が生じたため、元春は12月20日隠居し以後元長家督吉川氏に伝わる什宝継いだ。翌天正11年1583年7月12日には、輝元から3貫の地を与えられる

※この「尼子氏・織田氏との戦い」の解説は、「吉川元長」の解説の一部です。
「尼子氏・織田氏との戦い」を含む「吉川元長」の記事については、「吉川元長」の概要を参照ください。

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