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尼子国久時代の新宮党と増長とは? わかりやすく解説

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尼子国久時代の新宮党と増長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:37 UTC 版)

新宮党」の記事における「尼子国久時代の新宮党と増長」の解説

新宮党尼子経久次男尼子国久継承し引き続き尼子一門藩屏として活躍するこの頃新宮党は、国久養子先である吉田氏所有する出雲国東部地域、そして謀反企てて追討された国久末弟塩冶興久遺領である出雲国西部地域塩冶引き継いで支配しており、出雲国内の勢力は非常に大きいものがあった。宗家とは別の独立した権限所有しており、経久死後当主尼子晴久裁判権等に度々介入行っている。 新宮党尼子軍精鋭部隊であり、その勇猛さ勢力拡大貢献したことから、国久と息子の誠久は尼子家中で傲慢に振る舞い尼子氏当主尼子晴久や他の重臣たちとの間に確執軋轢生じていた。 例として 尼子誠久自分の前を通り過ぎる者に対して下馬命じた事があり、それに反発した熊谷右衛門という武将が牛の背に鞍を置いてまたがり「馬ではなく牛である」として、これ見よがしに誠久の前を通り過ぎたという一件があった。 あるいは中井平蔵兵衛尉という、髭が立派な事を自慢にしている武将がいたが、尼子誠久にその髭をなじられた。翌日尼子晴久前に出仕した中井は、髭を片方だけ剃っており、晴久がそのふざけた態度に怒ると、中井は誠久に髭の事で叱られたので剃り落す事にしたが、晴久も知っている立派な髭をすべて剃るのは晴久に対して無礼になるとして、片方だけ剃った述べたいずれも事実であるか疑わしい逸話であるが、新宮党と他の重臣との間に確執生じていた事、あるいは晴久と新宮党それぞれ異な命令出したために家臣がどちらに従うべきか困惑した事を伺わせる。 また、尼子宗家直接介入し、その経済力軍事力直轄化しようとした杵築大社起こした諸問題では、新宮党率い国久に頼る必要があった。国久発給文書には杵築大社杵築大社支配下勢力尼子晴久結んだ文書多く西出雲における尼子氏支配国久通した間接的なものであった

※この「尼子国久時代の新宮党と増長」の解説は、「新宮党」の解説の一部です。
「尼子国久時代の新宮党と増長」を含む「新宮党」の記事については、「新宮党」の概要を参照ください。

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