尼子国久時代の新宮党と増長
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「新宮党」の記事における「尼子国久時代の新宮党と増長」の解説
新宮党は尼子経久の次男尼子国久が継承し、引き続き尼子一門の藩屏として活躍する。この頃の新宮党は、国久の養子先である吉田氏が所有する出雲国東部地域、そして謀反を企てて追討された国久の末弟・塩冶興久の遺領である出雲国西部地域の塩冶も引き継いで支配しており、出雲国内の勢力は非常に大きいものがあった。宗家とは別の独立した権限も所有しており、経久死後は当主尼子晴久の裁判権等に度々介入を行っている。 新宮党が尼子軍の精鋭部隊であり、その勇猛さで勢力拡大に貢献したことから、国久と息子の誠久は尼子家中で傲慢に振る舞い、尼子氏当主の尼子晴久や他の重臣たちとの間に確執・軋轢が生じていた。 例として 尼子誠久は自分の前を通り過ぎる者に対して下馬を命じた事があり、それに反発した熊谷新右衛門という武将が牛の背に鞍を置いてまたがり「馬ではなく牛である」として、これ見よがしに誠久の前を通り過ぎたという一件があった。 あるいは中井平蔵兵衛尉という、髭が立派な事を自慢にしている武将がいたが、尼子誠久にその髭をなじられた。翌日、尼子晴久の前に出仕した中井は、髭を片方だけ剃っており、晴久がそのふざけた態度に怒ると、中井は誠久に髭の事で叱られたので剃り落す事にしたが、晴久も知っている立派な髭をすべて剃るのは晴久に対して無礼になるとして、片方だけ剃ったと述べた。 いずれも事実であるか疑わしい逸話であるが、新宮党と他の重臣との間に確執が生じていた事、あるいは晴久と新宮党がそれぞれ異なる命令を出したために家臣がどちらに従うべきか困惑した事を伺わせる。 また、尼子宗家が直接介入し、その経済力・軍事力を直轄化しようとした杵築大社が起こした諸問題では、新宮党を率いる国久に頼る必要があった。国久の発給文書には杵築大社・杵築大社支配下勢力と尼子晴久を結んだ文書が多く、西出雲における尼子氏の支配は国久を通した間接的なものであった。
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