尼子一族の造反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 17:16 UTC 版)
晴久が第一次月山富田城の戦い以降、出雲から退転・追放するに至った者の中に、尼子清久・多賀氏・千家氏・宍道氏・佐波氏がいるが、これらは尼子氏と婚姻・縁戚関係を結ぶ一族であった。これらは経久時代の方針により婚姻関係が進められたところが多い。更に塩冶興久の乱の時にも一度これらの処分を受けた者は塩冶側に加担した。また、経久は塩冶興久の件を踏まえて晴久の正室に尼子国久の娘を嫁がせて、親族の不和を無くそうとした。しかし、この妻の死により国久との絆を断ち晴久を新宮党の粛清という手段へ踏み切らせることになった。
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