小説への懐疑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/09 02:57 UTC 版)
『価値について』という章の中では、「エジソンはフランスに生まれていたら詩人になっていたはずだ」というエリック・ホッファーの言葉を引きながら、日本文学の小説中心主義への疑問を投げかけている。スポーツ新聞が当時実質的には野球の新聞であるのと同様に、文芸誌は実質的には(文学の様式には他に詩や戯曲などがあるのに)小説の雑誌になってしまっているとし、梶井基次郎の作品がなぜ詩とみなされず小説とみなされるのかという疑問を呈し、劇作家としての資質に恵まれながら小説に価値を置く社会に生まれてしまった三島由紀夫に同情する。 ちなみに著者の「小説に価値を置く近代」への懐疑・吟味は、本書以外でも表明され。作家批評「唐十郎の劇と小説」では、「私は小説が嫌いだ。小説が自明であるような近代の認識論的布置が嫌いで、それを切り裂きたい」などと宣言したこともあったし、『新現実』という雑誌での大塚英志との対談でも、「自分の文芸批評は小説に価値を置く近代への批判であったが、小説が没落したからやる意味がなくなった」と語っている。『近代文学の終わり』(インスクリプト)もそうである。
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