寿桂尼
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寿桂尼(じゅけいに、? - 永禄11年3月14日(1568年4月11日)は、戦国時代の女性。駿河国の戦国大名・今川氏親の正室。藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は権大納言中御門宣胤。弟に中御門宣秀、妹は山科言綱の正室・黒木の方。子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など。名は不詳。夫・氏親の死後、剃髪して翠光院寿桂(後に長膳院)と号し、大方殿と称された。氏親、氏輝、義元、氏真の4代にわたって今川氏の政務を補佐し、「尼御台(あまみだい)」と呼ばれた。
注釈
出典
- ^ 足立 1931.
- ^ 米原正義「駿河今川氏の文芸」『戦国武士と文芸の研究』桜楓社、1976年、834頁。
- ^ 黒田 2017, pp. 37–39.
- ^ 黒沢脩 著「今川家執権雪斎長老と寿桂尼」、今川氏研究会 編『駿河の今川氏 第一集』谷島屋書店、1975年。
- ^ 脇田晴子『戦国大名』小学館〈大系日本の歴史 7〉、1988年。
- ^ 有光 2008, p. 32.
- ^ 黒田基樹「〈今川仮名目録〉の世界」『今川義元とその時代』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月、46-50頁。ISBN 978-4-86403-322-0。
- ^ 久保田昌希「今川氏輝とその文書」『駒沢大学大学院史学論集』8号、1978年。
- ^ 足立 1931, p. 14.
- ^ a b 有光 2008, p. 33.
- ^ 今谷明『戦国の世 日本の歴史[5]』〈岩波ジュニア新書〉2000年、84-85頁。
- ^ 久保田昌希「今川氏親後室寿桂尼発給の文書について」『駒沢史学』24号、1977年。
- ^ 有光友学「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9号、1993年。
- ^ 黒田 2017, pp. 58–60.
- ^ 大石泰史「総論 今川義元の生涯」『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月、10-11頁。ISBN 978-4-86403-325-1。
- ^ 黒田 2017, pp. 88, 163.
- ^ 黒田 2017, p. 183.
寿桂尼(じゅけいに)
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「センゴク外伝 桶狭間戦記」の記事における「寿桂尼(じゅけいに)」の解説
今川氏親の正妻で、義元の生母。出家前の呼称は大方殿で、名は伝わっていない。義元を生む前に、立派な僧侶となるように唐鏡に手を合わせていた。その逸話から後に義元が「唐鏡の申し子」と称されるようになる。
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寿桂尼
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義元の母。今川家では義元ほどの権威ある存在だが、常識人ではない。口癖は「ゾよ」。義元をモテなく産んだことに罪悪感を持っている。かなりの高齢だが合コン好きであり、その際は表情や口調が一気に若返る。「姫コン」では女性側幹事となり、同席した綱成に一目惚れしていた。
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