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対馬侵攻の決定とは? わかりやすく解説

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対馬侵攻の決定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:33 UTC 版)

応永の外寇」の記事における「対馬侵攻の決定」の解説

朝鮮沿岸はおよそ10年倭寇被害受けていなかったが、応永26年5月7日1419年5月31日)、対馬での飢饉によって数千人の倭寇が明の浙江省向かっていた途中食糧不足朝鮮の庇仁県(今の韓国忠清南道舒川郡)を襲撃し海岸兵船焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外民家略奪する事件発生した。この倭寇5月12日6月5日)、朝鮮海州へも侵犯し殺害されたり捕虜となった朝鮮軍300人に達した朝鮮の上王である太宗は、これが対馬壱岐からの倭寇ということ知り5月14日6月7日)、対馬遠征決定国王世宗出征命じた朝鮮側5月23日6月16日)に九州探題使節対馬攻撃予定伝え5月29日6月22日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してその旨伝達した一方朝鮮に来た倭寇集団は、以後朝鮮脱して遼東半島入ったが、そこで明軍大敗する望海堝の戦い中国名望海大捷)。 対馬侵攻する朝鮮軍三軍右軍中軍左軍)で編成され李従茂司令官とし、軍船227隻、兵員17,285人の規模であり、65分の食糧携行していた。 朝鮮軍司令部構成次の通りであった三軍都體察使李従茂 中軍節制使禹博・叔畝・黄象 左軍都節制使湿 左軍節制使礎・朴実 右軍都節制使之実 右軍節制使金乙和・順蒙 太宗朝鮮軍対馬へ行く前に「ただ盗賊のみを討て宗貞盛には手を出さず九州安堵せよ。」と命じた

※この「対馬侵攻の決定」の解説は、「応永の外寇」の解説の一部です。
「対馬侵攻の決定」を含む「応永の外寇」の記事については、「応永の外寇」の概要を参照ください。

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