対立・開戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 23:50 UTC 版)
「ナイルの戦い (紀元前47年)」の記事における「対立・開戦」の解説
カエサルがリクトル(警護兵)を引き連れてエジプト王宮に入ったことを、アレクサンドリア住民(当時の住民数は50万から100万の間)は「王のような振舞い」と捉え、反ローマ感情を露わにした。これに乗じてプトレマイオス13世派はペルシオンに駐留させていた兵22000(歩兵20000、騎兵2000)をアレクサンドリアへ進軍させた。これに対して、カエサルは兵力や軍船(カエサル軍10隻、プトレマイオス13世派72隻)で圧倒的に劣っており、ローマに増援部隊の派遣を要請していた。また、防御の点で優れていたファロス島の大灯台を占拠して拠点の1つとした。 プトレマイオス13世派は兵力がまさっており、地元の利も生かして優位に立っていたが、プトレマイオス13世と姉アルシノエ4世の主導権争いにより、攻勢を掛けるには至らなかった。カエサルの要請によって到来したミトリダテス(en、かつてローマと敵対したポントス王ミトリダテス6世の庶子)指揮下の増援軍は、小アジアから陸路でエジプトに向かい、まずペルシオンを占領し、紀元前47年1月ナイル川のデルタ地帯のメンフィスへ進軍、その後アレクサンドリアへ向って北上し、カエサル軍と合流した。カエサルとプトレマイオス13世の両軍は紀元前47年2月にナイル川下流のデルタ地帯で激突した。 カエサル軍は伝統的なローマの戦法であるピルム(ローマ式投槍)の投擲によってプトレマイオス13世軍を攻撃、戦術・兵器・経験全ての面で勝ったローマ軍は、瞬く間にプトレマイオス13世軍を撃破、エジプト兵は散り散りに戦場から逃れた。一部の兵は船に乗り込んだが、乗員数過重もあって船が転覆して多数の兵が溺死した。国王プトレマイオス13世は逃亡に成功したが、ナイル川に身を投じて自殺した。ローマ軍の捕虜となっていたアルシノエ4世を除き、プトレマイオス13世派の指導者はこの時までに全員が死亡した。
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