家族・家庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:50 UTC 版)
3人の弟宮との兄弟関係は良好で、特に性格のほぼ正反対といってよい長弟・秩父宮雍仁親王とは忌憚のない議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、薨去前日に見舞いを希望しながら、秩父宮への精神的影響への配慮のため後ろ倒しにしたため臨終に間に合わなかった。そのため、次弟・高松宮宣仁親王が病気で療養すると、3度見舞いに訪れ、その3回目が薨去当日であった。また妃たち同士(香淳皇后、雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)も仲が良好で、これもまた兄弟関係を良好に保つ大きな助けとなった。 久邇宮家出身の女王である妻・香淳皇后(名:良子〈ながこ〉)のことは、「良宮」(ながみや)と呼んでいた。一方、妻の香淳皇后は夫である昭和天皇のことを「お上(おかみ)」と呼んでいた。2人の間には7人(2男5女)の子宝にも恵まれ、夫婦仲は円満だった。岡本愛祐(当時東宮侍従)の回想によれば、結婚当初から、当時の男女としては珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。1919年(大正8年)、宮内大臣波多野敬直から、婚約を知らされる。翌1920年(大正9年)に久邇宮邸で良子女王と儀礼的に対面したが、言葉を交わすことは無かった。その後、二人の対面も計画されたが実現せず、結局、婚約中に親しく会う機会はなく、印象もない。 婚約中の1921年(大正10年)に訪欧したとき、婚約者とその妹たちへの土産に、銀製の手鏡・ブラシセットを購入した。結婚後も、行幸先、植物採集に出かけた先では必ず「良宮のために」と土産を購入、採集した。また1971年(昭和46年)の訪欧時にも、オランダで抗議にあって憔悴した皇后を気遣ったエピソードがある。 天皇の手の爪を切るのは、皇后が行っていた。侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると「これは良宮(ながみや)が切ることになっている」と、医師に切らないよう意思表示した。 香淳皇后との間には当初皇女が4人続けて誕生したため、事態を憂慮した宮内省(現:宮内庁)は側室制度(一夫多妻制)を復活させることを検討し始めていた。しかし側近が側室を勧めた際、昭和天皇は「良宮でよい」と返答した。側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返したエピソードも残っている。また、香淳皇后に対しては「皇位を継ぐ者は、秩父さんもおられれば、高松さんもおられる」「心配しないように」と励ましたという。 5人目の子にして、待望の第一皇子(第一皇男子)・継宮明仁親王を得た際の昭和天皇の喜びようは大変なものだった。しかしそれにも増して、それまで華族たちから「女腹」(女子ばかりでお世継ぎたる男子を出産できない)と陰口を叩かれて肩身の狭い思いをしていた香淳皇后へのねぎらいはひとしおなものだった。男子誕生の知らせを受けた昭和天皇はいても立ってもいられず、まっしぐらに香淳皇后のもとへ赴いて母子を見舞い、万感の思いを込めて「よかったね」と一声かけるとすぐに退出、ところがすぐにまた引き返し、ふたたび同様に声をかけ皇后をねぎらった。 香淳皇后の老いの兆候が顕著になったあとも「皇后のペースに合わせる」などと皇后を気遣っており、1987年(昭和62年)9月に行われた昭和天皇の手術後の第一声も「良宮はどうしているかな」だった。 (夭折した第2皇女子・久宮祐子内親王を除く)6人の皇子女たちは近代以降初めて、両親の手元によって皇后の母乳で育てられたが、学齢を迎えるころから4人の内親王たちは呉竹寮で、2人の親王たちは3歳ごろより別々に養育され、家族とはいえ、一家が会えるのは週末のみになってしまった。しかし会える時間が短いとはいえ、天皇が四女・厚子内親王の勉強の質問に丁寧に答えたなどの逸話がある。 長男で皇太子の継宮明仁親王には「(帝王学の一環として)西洋の思想も学ばせるべきである」と考え、家庭教師にエリザベス・ヴァイニングを招いた。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を与え、父親の昭和天皇自ら対戦して皇太子の知恵を育んだ。 父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起し、記者会見で「皇太子時代は究めて快活にあらせられ極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事窮屈にあらせられ(中略)ついに御病気とならせられたることまことに恐れ多きことなり」と回想している。長弟・秩父宮雍仁親王も同様の発言をしている。 ひげを蓄えたのは、香淳皇后との成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」とも、その理由を説明している。他方、1986年(昭和61年)以降、孫の一人である文仁親王が口ひげをたくわえ始めたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。なおひげの手入れは「自ら電気カミソリで行っていた」という。 自身の初孫で、長女・成子内親王(東久邇成子)の長男・東久邇信彦に対し、結婚相手の条件として「両親が健在な、健全な家庭の人であること」「相手の家にガン系統がないこと」などを伝え、「条件に合えば自分の好きな人でいい」とした。
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