姑臧へ入城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
こうして呂光は姑臧へ入城を果たすと、梁熙を処刑した。また、自ら涼州刺史・護羌校尉の任に就き、杜進を輔国将軍・武威郡太守に任じて武始侯に封じ、他の群臣も功績に応じて封拝を行った。これにより涼州の郡県は尽く呂光に降ったが、酒泉郡太守宋皓・西郡太守索泮だけは城を固守して降伏しなかった。その為、呂光は兵を繰りだして侵攻し、彼らを捕らえると、索泮を責め咎めて「我は詔を受けて西域を平定した。それなのに梁熙は我の帰路を断ったのだ。これは朝廷の罪人である。卿はどうしてこれに附したのか」と問うた。すると索泮は「将軍は西域平定の詔を受けましたが、涼州を乱すような詔は受けていないでしょう。梁公(梁熙)に何の罪があって将軍はこれを殺したのですか。この索泮はただ残念にも力が足らず、君父の仇に報いる事が出来ませんでした。どうして逆氐彭済のような真似が出来ましょうか!主が滅べば臣も死ぬ。それは常でありましょう」と答えた。呂光は宋皓・索泮を処刑した。
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