好機の逸失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 05:40 UTC 版)
「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「好機の逸失」の解説
スハルトは10月1日の時点で時の人となっていたが、この時点では多くの陸軍将校がナスティオンのリーダーシップを頼りにしており、この状況にさらなる決断力を持って対処することを彼に期待していた。しかしナスティオンは決断が鈍いと見られた。ナスティオンへの支持は確実に彼のもとから去っていった。彼の覇気が失われたように感じられたのは、10月6日に亡くなった愛娘、アデ・イルマを悼んでいたからであろう。 9月30日事件後の数週間は、ナスティオンはスカルノと交渉を続けて、スハルトを陸軍司令官に任命させようとした。スカルノは10月1日以降もプラノトを陸軍司令官にしたがっていた。そしてスハルトについては、治安秩序回復作戦司令部 (KOPKAMTIB) 司令官にとどめおけばよいと考えていた。 しかしナスティオンの粘り強い働きかけにより、スカルノはついに折れ、1965年10月14日、スハルトを陸軍司令官に任命した。 最高の機会がナスティオンに訪れたのは1965年12月、先の見通せないこの時期に、スカルノを補佐する副大統領の地位に彼を就けるという話が挙ったときだった。しかし、ナスティオンはこの機会に乗らず、何の動きも見せなかった。政治的な勢いを得たスハルトは主導権を握って、1966年初頭、空席となっている副大統領職を無理して埋める必要はないとの声明を出した。 1966年2月24日、ナスティオンは内閣改造とともに国防治安大臣の地位を失った。また、国軍参謀長の地位は廃止された。 この段階になると、ナスティオンが何事かをなしてくれるだろうとの期待は消え去り、陸軍将校や学生運動はスハルトのもとに結集した。それでもナスティオンは敬意を集める人物としてありつづけ、多くの陸軍将校たちが、「3月11日命令」(治安秩序回復に必要なあらゆる権限をスハルトに与えるという大統領令、スーパースマルと称される)が下るまでの日々、ナスティオンのもとを訪れた。スハルトもスーパースマルが届くのを待つために KOSTRAD 本部に向かおうとした時、ナスティオンに電話をかけ、彼に祝福してくれるよう頼んだほどである。不在のナスティオンに代わり、夫人が祝福を与えた。 スハルトがスーパースマルを受けた後のナスティオンは政治的嗅覚を取り戻したようである。スーパースマルがスハルトに非常事態の権限を与えるだけでなく、それを越える権力も与えることになると最初に気づいたのはおそらくナスティオンである。1966年3月12日、スハルトが PKI を禁止にした後、ナスティオンはスハルトに非常事態内閣を作るように示唆した。新たな権力を手に入れた自分に何ができて何ができないのか逡巡していたスハルトは、内閣を組閣するのは大統領の職務であると答えた。ナスティオンはスハルトを励まし、全力で支援すると約束したが、スハルトは答えず、ぶっきらぼうに会話は終了した。
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