どれい‐ぼうえき【奴隷貿易】
奴隷貿易
奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:43 UTC 版)
前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。 後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。 1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。 戦国時代の乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易を行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこから東南アジア・インドに送られたものもいたという。1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる。イエズス会は倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇の一団から身を守るために、宣教師たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている。 鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』は南九州の高洲では200-300人の中国人奴隷が家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人は福州、興化、泉州、漳州の出身だったという。 歴史家の米谷均は蘇八の事例を挙げている。蘇は浙江の漁師で、1580年に倭寇に捕らえられた。蘇は薩摩の京泊に連れて行かれ、そこで仏教僧に銀四両で買い取られた。2年後に彼は対馬の中国人商人に売られた。6年間、対馬で働き、自由を手に入れた蘇は、平戸に移り住んだ。平戸では、魚や布を売って生活していた。そして1590年、中国船でルソン島に渡り 翌年に中国に帰国することができたという。
※この「奴隷貿易」の解説は、「倭寇」の解説の一部です。
「奴隷貿易」を含む「倭寇」の記事については、「倭寇」の概要を参照ください。
奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 03:58 UTC 版)
黒海北岸地帯は奴隷貿易の拠点の1つであり、その歴史は近代まで続く。当時のギリシア人の記録には黒海経由の奴隷貿易がしばしば言及され、奴隷の輸出元として当時有名な地域であったのは確実である。これらの影響を受けて、最近までボスポロス王国の経済において奴隷貿易が重要な要素であったとする主張がよくなされていたし、現在でもこういった見方は非常に強い。ただし近年では奴隷の取引量は他の奴隷供給地と比較して特筆すべき差は無く、この地方の交易活動を語るに際し奴隷貿易を際立った特徴とするのは齟齬があるという主張がされている。
※この「奴隷貿易」の解説は、「ボスポロス王国」の解説の一部です。
「奴隷貿易」を含む「ボスポロス王国」の記事については、「ボスポロス王国」の概要を参照ください。
奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
詳細は「大西洋奴隷貿易」を参照 大西洋は、奴隷貿易が歴史上で最も盛んに行われた。大西洋の奴隷貿易が増加するきっかけは、サトウキビの栽培と関連がある。アメリカ大陸でサトウキビのプランテーションが始まると、大量の労働力が必要とされ、1501年には大西洋を横断する奴隷貿易が始まる。ポルトガルはすでに1486年にリスボン奴隷局を設立して、奴隷商人に貿易許可証を発行していた。スペインは貿易の請負契約であるアシエントを商人や外国と結び、奴隷商人は1545年から1789年にかけてアシエントの契約料と税金を納めて奴隷貿易を行った。1642年以前はスペインとポルトガルが主導して、次にオランダ、フランス、イギリス、デンマーク植民地帝国、スウェーデン、ハンザ都市もこれに続いた。 海流と風向きによって2つのルートがあった。赤道北部のルートはヨーロッパを拠点として、コンゴ川の北部と北アメリカ、カリブ地方、リオ・デ・ラ・プラタを結び、イギリスが主導した。南大西洋のルートはブラジルを拠点として、西アフリカや中部アフリカとブラジルを結び、ポルトガルが主導した。運ばれる人間の数は、人間の価格の上昇につれて増加した。16世紀中期のポルトガルのリスボンでは人口10万人のうち10パーセントが奴隷であり、スペインのセビリヤでは人口8万5000人のうち8パーセントが奴隷だった。運ばれたアフリカ人の総数は推定1250万人とされており、生きてたどり着けなかった者を含めると、さらに多数となる。運んだ数ではポルトガルが最多であり、17世紀にはスペイン領アメリカのペルー副王領とポルトガル領ブラジル(英語版)に奴隷の多くが運ばれ、18世紀からはイギリス領カリブ、ブラジル、フランス領カリブの順となる。西アフリカからアメリカ大陸までの航海には40日間から70日間かかり、航海中の死亡率は8パーセントから25パーセントに及び、死亡率が最も高かったのは、距離が長い北アメリカへの航路だった。奴隷となったアフリカ人には戦争捕虜や犯罪者、奴隷狩りの犠牲者が多く、17世紀以降は奴隷獲得のための戦争を行うアフリカの国家もあった。18世紀以降は女性の割合が増えて男性2人につき女性1人となり、最後の60年間は子供の割合が2倍になった。
※この「奴隷貿易」の解説は、「貿易史」の解説の一部です。
「奴隷貿易」を含む「貿易史」の記事については、「貿易史」の概要を参照ください。
奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 02:30 UTC 版)
ガボン沿岸はカメルーンと同様、大西洋奴隷貿易においてニジェール・デルタやロアンゴ海岸、アンゴラと比較すると、小さな役割しか果たしていなかった、奴隷貿易は18世紀後半からの3世紀間のみであった 当初、オルング王国は奴隷の売り手ではなく買い手であって、奴隷は象牙で購入した。奴隷輸入の他にはオルングおは鉄も輸入していた 1760年代には、オルング王国は奴隷を取引し、アガムウィンボニはナザレス川とサン・メシアス川での課税によって豊かになることができた。 しかし、それでもオルング王国領での貿易は南方の隣国に比べて小さかった。1788年、ロペス岬とガボン河口は、ロアンゴ海岸から輸出された年間13,500人の奴隷と比較して、年間約5,000人の奴隷を輸出していた 19世紀初頭、ロペス岬の南方に位置するフェルナン・ヴァズ・ラグーンは、オルング王国に多くの奴隷を供給した 19世紀半ばまでには、ムポングウェのような最も知られた沿岸の集団は自国民を売っていなかったものの、その代わり自らの隣国を襲撃した。しかし、オルング王国は、しばしば債務者や、魔術師、姦淫者、詐欺師をポルトガルの奴隷貿易業者に売り渡した 1853年、オンバンゴ・ロゴンベ首長のもとでオルング王国は奴隷貿易を放棄することとし、現在のリーブルヴィルの付近の古びた奴隷バラック小屋はアメリカの宣教師に譲渡された。宣教師らは学校と教会の開拓地を設立し、バラカと名付けた。 オルングの奴隷貿易は1870年代まで続き、違法な奴隷商人らが、川のさらに上流から沿岸のポルトガル人の買い手に人員を送り込んでいた。
※この「奴隷貿易」の解説は、「オルング王国」の解説の一部です。
「奴隷貿易」を含む「オルング王国」の記事については、「オルング王国」の概要を参照ください。
奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:56 UTC 版)
詳細は「奴隷貿易」を参照 長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴隷貿易は継続して行われ、1800万人がサハラ交易やインド洋貿易で取引された。大航海時代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ州向けの奴隷貿易(英語版)が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された。 1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部でのイギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊(英語版)は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した。 また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラゴスの略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された。この動きに、国力があったアシャンティ王国、ダホメ王国、オヨ王国(英語版)は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油やカカオ、ランバー材(英語版)や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した。
※この「奴隷貿易」の解説は、「アフリカ」の解説の一部です。
「奴隷貿易」を含む「アフリカ」の記事については、「アフリカ」の概要を参照ください。
奴隷貿易と同じ種類の言葉
- 奴隷貿易のページへのリンク