ふん‐せん【奮戦】
奮戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 02:25 UTC 版)
16日に合流した大鳥圭介ら伝習隊と共に新政府側の笠間藩、壬生藩の部隊と交戦、数で勝る新政府軍をスナイドル銃・スペンサー銃など新式の銃を装備していた凌霜隊が圧倒した。 以降、北関東戦線で連戦するが宇都宮城の戦いで退却を余儀なくされる。その後凌霜隊は日向内記指揮の会津藩兵に従った。 会津若松城への退却戦を続ける中、会津藩の小山田伝四郎と共に塩原宿に駐屯する。その後会津藩から「敵方にこの地が使われないように一軒残らず焼き払え」との命令により塩原周辺の家屋を焼き払うことになるが、茂吉らは3ヶ月間世話になった塩原を焼く事は忍びないと、妙雲寺(臨済宗妙心寺派甘露山(現栃木県那須塩原市塩原))には放火せず、また、すぐに建て直しが出来るように、事前に主な建物を解体し建材を残すなどした。 9月6日に凌霜隊が若松城に入城し、日向内記の指揮下に入って白虎士中合同隊と共に西出丸の守備に就き、新政府軍と激戦を繰り広げた。 そして明治元年(1868年)9月22日、会津藩が降伏すると凌霜隊もこれに従って降伏し、城を出て猪苗代で謹慎し、会津戦争に終わりを告げた。
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