き‐しゅう〔‐シフ〕【奇襲】
【奇襲】(きしゅう)
suprise
敵が防御していない場所・時期を見計らって攻撃を行う事。
当然ながら万全に防御されている場合よりも容易に損害を与え、士気をくじく事ができる。
ただし、奇襲された事は必ず発覚するため、敵の増援が展開する前に攻撃する機動力が要求される。
機動力と正面戦力はおおむねトレードオフの関係にあるため、奇襲作戦には正面決戦ほど多くの戦力を割けない。
結果、奇襲に失敗すると想定以上の防御に直面し、不満足な戦力での正面決戦を余儀なくされる。
戦略としての奇襲
戦略としての奇襲は、事前の作戦計画と全く異なる状況で突如として戦争を始める事を言う。
軍事に投入できる兵站資源は常に有限であるため、多くの国家は少数の仮想敵国への対策に配備を集中する。
また、複数の国家から同時に襲われるのを避けるため同盟国を作り、国内に安全地帯を確保しようとする。
結果、あまり警戒されていない国家が突如として宣戦布告した場合には奇襲が成立する。
紛争が避けられないと目される場合も、軍事的・政治的常識を無視した"早すぎる"会戦はしばしば奇襲となる。
例えば、人類史全体を通じて冬の戦争は被害が甚大で、避けるべきものとされる。
結果、多大な被害を承知の上で冬に強襲を仕掛ける事で奇襲が成立した例は枚挙に暇がない。
もちろん、投入された兵士達が冬将軍の猛威を前にどれだけ生存できたかはまた別の問題だが。
こうした国家規模の大きな奇襲は成功すれば効果も多大な反面、試みる事によって失われるものも大きい。
しばしば国家間の条約や信頼関係を無視し、双方の国民感情に多大な悪影響を及ぼすからだ。
もちろん、戦時体制においてそのような感情は無視されるものだが、戦争の勝敗がどうあれ、戦後には国民と国外の悪感情に直面しなければならなくなる。
作戦としての奇襲
軍隊が全体として作戦方針を立案するに際しても、奇襲を狙う事は多い。
自軍は奇襲を行わないとしても、敵が奇襲を仕掛けてくる可能性については検討する必要がある。
作戦として奇襲を行う際の要諦は、敵の参謀に誤った情報分析を行わせる事である。
しかし、一般論として彼我の参謀集団の知的能力に劇的な格差があるとは考えにくく、容易なことではない。
奇襲作戦を成功させる方法の一つは、特定の敵を欺く事だけを目的とした参謀団を組織する事である。
これは、クーデター勢力など軍事的に弱体な集団が勝利を収めた事例に典型的である。
いわゆる「革命軍」のほとんどは、たった一つの敵性組織を打倒するためだけに組織される。
よって、通常の軍隊では非合理な決断を容易に行い、それによって奇襲を仕掛ける事ができる。
もう一つの方法は、他国に先んじて軍事革命を実行し、これを前提とした戦略を構築する事である。
古くは鉄の実用化から、現代のデータリンクまで、科学技術上の優位は明白な有利をもたらす。
先端軍事技術を自国のみが保持し、敵国は保持していないという時、技術的手段による奇襲は阻止不能である。
もちろん、それは技術が追い付くか、対抗戦術が構築されるまでの一時的優位に過ぎない。
戦術としての奇襲
実際の前線において、奇襲は日常茶飯事である。
特に第二次世界大戦以降、無線通信を前提とした散兵戦はまさに奇襲の連続と言ってよい。
戦略的な視点では単純な正面決戦であっても、こと個々の兵士にとっては暗中模索に近い。
個々の兵士が把握できる情報には限界があるし、敵を事前に発見できる可能性も決して高くはない。
巨大な敵集団全体を欺くのは困難でも、数人の見張りを奇襲するのは比較的容易である。
正面から撃ち合えば常に死の危険があるのだから、生き延びたければ奇襲を仕掛けるべきである。
よって、前線の兵士は防御において奇襲を警戒し、攻撃に際しては常に奇襲を目論む。
奇襲
奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/11 14:57 UTC 版)
『A』に登場。「熱血」「加速」「必中」「ひらめき」が同時にかかる。『A PORTABLE』では廃止されたが、『無限のフロンティアEXCEED』で復活した。
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奇襲
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「ダートマス奇襲 (1749年)」の記事における「奇襲」の解説
1749年の9月30日、ダートマスで木を伐採していた6人の男を、約40人のミクマク族が攻撃した。その場で4人がその場で殺され、1人は捕囚され、1人は逃げた。そのうち2人は頭皮を剥がれ、他は首を切られた。この攻撃は、ダートマス湾の製材所で、少佐のジルマンの指揮で行われたものであった。イギリス軍の命令を受けたレンジャー部隊がミクマク族のあとを追い、彼らのうち2人の首を切り落とし、1人の頭皮を剥いだ。
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奇襲
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「コンピエーニュ包囲戦」の記事における「奇襲」の解説
ジャンヌは3月にはすでに危険を感じて準備を進めていたが、前年9月のパリ包囲戦の失敗を理由に軍の指揮を認められていなかった。そこで、4月までに300~400人の志願兵を集め、国王には知らせずにコンピエーニュに向かい、5月14日に到着した。23日、ジャンヌはコンピエーニュの守備隊と協力し、城の北側のマルニーにあるブルゴーニュ軍の駐屯地に奇襲をかけようとした。ところが、リニー伯がたまたまこの地域を偵察中にこの動きに気付き、秘かに本隊から援軍を呼び寄せていた。フランス軍の奇襲はブルゴーニュ軍6,000の反撃に遭い、ジャンヌはコンピエーニュの城に退却を命じつつ自身は殿軍に立った。
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奇襲
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2月18日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、僅か5艘150騎で出航を強行する。同日午前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した。 『吾妻鏡』に「丑の刻(午前2時)に船5艘で出発し、卯の刻(午前6時)椿浦浜に着く(通常は三日の行程)」と記されている。4時間で到着したことになるが、これは『吾妻鏡』が出発日または到着日を1日間違え、実際には1日と4時間の航行時間だったという見方が有力である[要出典]。なお、かつて大阪南港-徳島港間を運行していたフェリー(徳島阪神フェリー)の所要時間は3時間30分であった。 勝浦に上陸した義経は在地の武士近藤親家を味方につけ、屋島の平氏は、田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、1000騎程しか残っておらず、それも阿波国、讃岐国各地の津(港)に100騎、50騎と配しており、屋島は手薄であるとの情報を手に入れ、好機と判断した。 まず、義経は平氏方の豪族桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る。その後、徹夜で讃岐国へ進撃して翌2月19日に屋島の対岸に至った。 この頃の屋島は独立した島になっていた(江戸時代の新田開発により陸続きに近くなった。ただ、今なお相引川によって隔てられている)。干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。
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奇襲(Raid)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 14:19 UTC 版)
強襲は恒久的な占領を目的とするのに対し、戦術的・作戦的な目的を達成するための一時的な拠点確保を目的とするのが「奇襲」で、部隊の撤収・収容を最初から計画に織り込んでいる点が決定的に異なる。通常は小規模なコマンド部隊による特殊作戦として行われるが、ディエップの戦いのように師団規模の作戦が展開される場合もある。
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奇襲
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チャーチと400人の奇襲隊(うち50人から150人がインディアンで、多分イロコイ族である)は、9月20日にボーバサンの沖合に到着した。岸に着いた奇襲隊を、アカディア人とミクマク族が砲撃し、チャーチの副官と兵が何人か犠牲になったが、どうにか上陸を果たし、アカディア人たちに不意打ちを食わせた。1人のアカディア人がチャーチの前に立ちはだかり、1690年に自分たちが署名した、イングランド王への忠誠の誓文を見せつけた。その間に、多くのアカディア人たちが逃げて行った。チャーチは何事にも聞く耳を持たなかった。教会の入り口の、ペマキッドの戦いの勝利声明を見つけた後は、余計に聞く耳を持たなかった。彼は多くの家や建物を焼き、住民を殺し、家にあった物を盗み、家畜を惨殺した。 アカディア総督のヴィユボンはこう伝えている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}イングランド人奇襲隊はまる9日間ボーバサンにいた。自分たちの船から物資を持ち出そうとはせず、それどころか、着のみ着のままでいるアカディア人たちに、憐みをかけるそぶりはしたものの、空っぽの家や納屋と一緒に、彼らを置き去りにして行った — 9日後、チャーチの奇襲隊はシグネクトからセントジョン川の河口に向かった。アカディア人捕虜を何人か連れていたが、うち少なくとも2名は釈放された。その8年後、チャーチは、やはりアカディアのグランプレを奇襲し、可能な限りの残虐な襲撃を行うことになる。
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奇襲(惑星サラスト)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 02:11 UTC 版)
「スター・ウォーズ 出撃! ローグ中隊」の記事における「奇襲(惑星サラスト)」の解説
惑星サラストに帝国軍基地が発見された。惑星シャンドリラでの借りを返すため、過剰とも思える防衛ラインをくぐりぬけ、火山活動をコントロールしているセントラルコンデンサーを破壊することになる。ちなみに、このステージをV-ウィングかスノースピーダーでプレイすると、最高高度の都合でセントラルコンデンサーのある高度まで上昇できないため、味方がセントラルコンデンサーを破壊するのを待つしかなくなる。
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奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:56 UTC 版)
城が防御準備をしていない段階で素早く攻撃し城内に入り込む。特に中世欧州の城や城壁都市は平時に多くの人の出入りがあるため奇襲は有効だった。
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奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/19 06:48 UTC 版)
奇襲隊は、民兵から成る集落外の駐屯隊からこっそり逃れたが、夜明け前のわずかな光の中、最初に彼らを見つけたのは、ヘイヴァーヒルの住民だった。その住民は、銃を発砲して警報を発し、村の方へ走って行った。フランスとインディアンの連合軍は、騒々しく物音を立てながら後を追った。奇襲隊が集落の民家を襲うと同時に、この警告が全体に行き渡った。一部の駐屯隊はこの地区の牧師館にいたが、牧師のベンジャミン・ロルフは、奇襲隊を入れないように玄関のかんぬきを差していた。奇襲隊は玄関に発砲し、さらにドアをたたき壊した。ロルフはこの銃撃がもとで負傷した。それから、フランスとインディアンの連合軍はロルフと妻、幼い子を虐殺し、「恐怖で身動きできず」慈悲を求める民兵たちをも殺した。ある民家では、開いた窓から赤ん坊が外に投げ捨てられたが、無事であった。多くの住民が、地下の穴倉へと逃げ込んでいた。この穴倉の隠し戸は奇襲隊に見つかっていなかったのである。民兵の指揮官であるウェインライトは、防備強化の準備をしていた時、奇襲隊の銃撃が家のドアを貫き、その弾に当たって即死した。 襲撃と略奪が続く中、民兵の中隊が近づく物音が聞こえ、奇襲隊は礼拝堂に火を付け、民家から強奪した捕虜や略奪品と共に姿を消した。隣接した集落から援軍が来ており(一部はセーラムから来ていた) 少佐ターナーの指揮下に召集された。ヘイヴァーヒルの民兵のある部隊は、集落から数マイル(約3-5キロ)のところに、奇襲隊の軍用行李が置いてあるのを見つけ、そのうちいくつかを持って帰った。サミュエル・エイアーの中隊は20人ほどで、退却中の奇襲隊を追跡した。最終的に、民兵の援軍により補強されたエイアー隊は、動きが取れなくなった奇襲隊と一戦交えた。後衛部隊の激しい攻撃により、奇襲隊は民兵を撃退し、エイアーを殺したが、奇襲隊側も、ルヴィーユの兄弟を含む9人が戦死し、18人が負傷した。この小競り合いの為、奇襲隊は捕虜と略奪品の一部を放棄して逃げて行った。この襲撃でヘイヴァーヒルでは、小競り合いの結果戻った人数を含め、30人から40人の死者と捕虜を出した。
※この「奇襲」の解説は、「ヘイヴァーヒル奇襲」の解説の一部です。
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奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 14:15 UTC 版)
「ディアフィールド奇襲」の記事における「奇襲」の解説
奇襲隊は、道具と物資を、町から25-30マイル(40-48キロ)北に置き、そして、1704年2月28日、ディアフィールドから2マイル(3.2キロ)のところに野営を張った。この、奇襲には有利な場所から、住民の様子を観察しつつ夜に向けた準備を進めた。村人たちは奇襲の可能性を悟り、柵の内側に避難していた。夜哨も立っていた。 奇襲部隊は、雪が柵の上に吹きだまりになっているのに気がついた。2月29日の未明に砦に侵入するのが、これで簡単になった。彼らは用心深く村に近づき、時折立ち止まった、これで、哨兵は、本来の雪の音と、彼らの進む音との区別がつかなかったはずだ。数人が吹きだまりを踏みしめて柵に上り、北の門を開いて他の者を入れた。初期の文献では、村の哨兵が、この夜どの程度まで侵入気づいていたか、ばらつきがある。ある文献では眠り込んでいたとあり、また別のものでは、急を知らせるために銃撃したものの、他の者には聞こえなかったとある。聖職者のジョン・ウィリアムズが語ったように「恐ろしい叫びと悲鳴とが聞こえ」奇襲隊は彼らに攻撃を「激しい勢いで」開始した。 彼らの奇襲は、おそらくは予想通りには行かなかった。1690年代のシュネクタディの奇襲や、オイスター川の奇襲では(この両方に、ルーヴィユの父親が絡んでいた)奇襲部隊はすべての民家を同時に襲った。ディアフィールドでは、それはなかった。歴史家のヘイフェリやスウィーニーは、組織だった襲撃の失敗は、攻撃する側の顔ぶれが様々であったことが原因であるという説を立てている。 奇襲隊は村になだれ込み、個々の民家を襲い始めた。ウィリアムズの家は、最初に襲われたうちの1軒だった。銃が不発で、捕虜に囚われたことで彼の人生は救われた。2人の子供と使用人は殺され、残りの家族ともう一人の使用人は捕虜となった。他の家でも、似たようなことが起こっていた。ベノビ・ステビンスの家の人々は、早いうちに襲撃された内だったが、攻撃に対し、日の出まで抵抗を続けた。二軒目の、柵内の北西の隅にあった家も防御に成功できた。奇襲部隊は村じゅうを移動し、すぐ北の地域に連れて行く捕虜を集め、金目のものを奪うために家をくまなく探し、大部分の家に火を放った。 夜が明けるに連れて、奇襲部隊の何名かは、捕虜とともに北への移動を開始したが、ディアフィールドから1マイル(約1.6キロ)ほど北の地点で止まり、まだ村での仕事を終えていない者を待つことにした。ステビンズの家にいた者たちは、2時間戦闘を続け、援軍が到着した時には、殆ど降伏するばかりになっていた。奇襲が始まったばかりの時点で、年若いジョン・シェルドンがどうにか柵を乗り越えて、近くのハドリーの町まで、このことを知らせに向かった。放火された家の炎が点々と見え、そして「ハドリーから30人の男が」ディアフィールドに急行した 。彼らの到着で、村に残っていた奇襲部隊は逃げ出し、うち何人かは慌てふためいて、武器や物資を置き去りにして行った。 奇襲部隊が突如逃げ去って行ったことと、援軍の到着とが、攻囲されていた村人の意識を高めた。そして、約20人のディアフィールドの男たちが、ハドリーの30人とともに、逃走した奇襲部隊の後を追った。イングランド系住民と奇襲部隊とは、村のすぐ北の草原で小競り合いとなり、イングランド側の報告によれば「彼らの多くをそこで殺し、負傷させた」。しかしながら、この追跡は早まったものであり、ディアフィールドとハドリーの住民たちは、早めに村を離れていた奇襲部隊の待ち伏せを受ける破目になって、50人ほどの住民のうち、9人が殺され、それより数人多い人数が負傷した。待ち伏せを受けた後、彼らは村に戻り、奇襲部隊は捕虜とともに北へ向かった。 ディアフィールドの南にも奇襲の知らせが広がったため、援軍が次々に村に到着した。夜中までには、ノーサンプトンとスプリングフィールドから80人が到着し、翌日の夜までには、コネチカットから駆けつけた者たちにより、援軍は250人にまで増えた。どのような行動をとるかを話し合った後、追跡は困難で、引き合わないという結論に達した。民兵たちは、頑健な駐屯兵を村に残して帰宅した。 奇襲部隊は、村の41の家屋のうち17を壊し、それ以外の家の多くからは金目の物を盗んでいた。また、ディアフィールドの住民44人を殺していた。男10人、女9人、子供25人で、それに加え駐屯兵5人、ハドリーの住民7人である 。この中で、ディアフィールドでの犠牲者の死因は、放火に関連したもの、または鋭利な刃物や鈍器によるものだった。また彼らは、村に長く住んでいたフランス人も捕虜としていた。報告はさまざまだが、奇襲部隊は損害も受けていた。ヌーベルフランス総督のフィリップ・ド・リゴー・ヴォードルイユは、この部隊の遠征で死んだのはわずか11人、負傷は22人と報告している。この負傷者の中にはルーヴィユと彼の兄弟の一人もいた。ジョン・ウィリアムズは、捕虜となっている間に、フランス人兵士から、40人のフランス兵とインディアン兵が死んだと聞かされた。ヘイフェリとスウィーニーは、他の奇襲に比べれば、フランス兵の死傷者数が少ないのは、称賛に値すると思っている。
※この「奇襲」の解説は、「ディアフィールド奇襲」の解説の一部です。
「奇襲」を含む「ディアフィールド奇襲」の記事については、「ディアフィールド奇襲」の概要を参照ください。
「奇襲」の例文・使い方・用例・文例
- ゲリラの一団が兵士たちを奇襲した。
- その奇襲についてもっと話しましょう。
- 彼らは敵に奇襲攻撃をかけた。
- 奇襲.
- 当方の戦闘機が夜明けに港を奇襲した.
- (主賓には知らせないで準備する)不意打ちのパーティー; 奇襲攻撃隊.
- 人の不意を打つ, 人を奇襲する.
- 奇襲を試みる
- 要塞を奇襲をもって略取した
- 熱心な支持者が奇襲攻撃を行い、血が流れた
- 待ち伏せから攻撃するゲリラの奇襲
- 奇襲
- 奇襲攻撃から陸軍を守る独立班
- 敵地に奇襲をかける訓練を積んだ水陸両用の軍事部隊
- 奇襲のための突撃専用部隊として訓練を受けた部隊の隊員
- 奇襲攻撃などの特殊訓練を受けた兵士
- 奇襲隊
- 奇襲攻撃をかける隊員
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