国民政府の政治家として
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1932年(民国21年)、蔣介石の招聘を受けた翁文灝は、蔣介石のために国内鉱物資源分布等について教授する。翁文灝の才識に賛嘆した蔣介石は、1935年(民国24年)12月、翁文灝を行政院秘書長に起用した。さらに、翁文灝は国際的な交友関係を生かして、欧州各国の経済界首脳と様々な交渉を担当している。 日中戦争(抗日戦争)期には、翁文灝は国民政府経済部部長に任じられ、さらに資源委員会主任委員、工鉱調整処処長、戦時生産局局長などの実業部門主管を歴任した。翁文灝率いる資源委員会の専門家たちは、中国国内の生産や資源配分等の後方支援で大いに活躍している。1938年に翁文灝は中国国民党に加入し、1945年(民国34年)5月、翁文灝は中国国民党の中央執行委員に選出された。さらに行政院副院長にも任命されている。 日中戦争終結後の1946年(民国35年)6月に中国石油公司が設立されると、翁文灝が董事長兼総経理に就任した。1948年(民国37年)5月、蔣介石が総統に選出されると、翁文灝が行政院長に昇格した。なお翁文灝は、中華民国憲法施行(「行憲」)後としては、初代の行政院長である。 翁文灝は国共内戦下での経済混乱の収拾に努力した。しかしその規模は、もはや翁文灝にも如何ともし難い水準にあった。金円券発行などの様々な施策も空しく、同年11月、混乱収拾を成し得なかった責任を取り、翁文灝は行政院院長を辞任した。同年12月、翁文灝は中国共産党から国民政府における43人の戦犯の1人として指名されている。1949年(民国38年)2月、翁文灝は代理総統李宗仁により総統府秘書長に再起用された。しかし、政務への意欲はもはや無かった。
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