国民党軍との連携
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日本軍陸軍省新聞班は1937年8月31日に作成した『北支事変経過の概要』において、北京から敗走した国民革命軍29軍の敗残兵が混在していたとみなした。 当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第29軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている。7月28日夜12時には、通州の城門がすべて閉鎖され、一切の交通通信が遮断されていたことは計画的襲撃の証左ともいわれる。 1986年の張慶餘の回想録以降、諸説が出された。 岡野篤夫は張慶餘の回想録によって事件は中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとし、宋哲元については「日本の田代軍司令官を真の友人であると称し、日本軍との協力を誓っていた。日本軍は全く迂闊でお人よしだったと言えるが、その理由は日本軍に中国と戦う意思がなかったからで、目的とするところは、居留民の保護と権益の擁護であった。ところが、国民政府や中国共産党は、その権益擁護や日本人の居住することを侵略と考えていた」と評している。 中村粲はこの事件は国民党軍は他の作戦と連携して綿密な計画したものとする。 秦郁彦は張慶餘の回想録以降は、通州日本軍の防備がうすくなった機会をとらえて計画的に反乱に及んだとする説が有力としている。 松田純清も「通州での叛乱は国民党軍が計画的に行った同一作戦」とみなしている。
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